うたかたの白日/A5/104ページ/本編完結済み/書き下ろし番外編あり/全年齢
(サンプル)
一、残響
地面をたたく残響音。
今日もやまない雨が降り続いているようだった。
しかし今更ここで私が私自身について語るとしても、ろくに語れるような自信も誇りも才能もなく。十八歳の時東京の医大に通いながら医者を志していたが、学ぶほど挫折を繰り返しやがて全てを諦めて東京を離れることとなった。
この街にやって来て私が暮らし始めたのは郊外の高台に建つ古い家で、そこからは黒色の軍艦とともに遥かに遠い海が見える。朝晩のその風景の美しさが、それだけが、たった一人この街にやって来た私にとって唯一の救いだった。
この数年は自宅で細々と外国文学の翻訳の仕事をして暮らしていた。収入は些細なものだったが一人で生きるのには事足りた。資産家だった亡き祖父母の遺産もまだのこっている。
「黒島さん、速達だよ」
秋の終わり、冬まであと少し。面倒で呼び鈴にいつまでも出なかったら郵便配達に引き戸を叩かれ急かされて、渋々とその手紙を受け取った。速達、これは私が電話に滅多に出ないことを知っている兄からのものだ。
心当たりのない手紙には悪い予感しかしなかったが、勢いのままその封を開ける。そこに書いてあったのは……。
「兄さん! 冗談はやめてくれないか」
「冗談なんか書いた覚えはないがね、散々弟の勝手を許した兄からの最初で最後の願いだよ」
「断る、そもそも私は……」
「その歳で隠居を決めたかったんだろう? しかし事情というものがある」
「じゃあ、あなたが引き取ればい良いじゃないですか!」
勢いのまま手紙を握りしめて慌てて兄へ苦手な電話をかける。遠縁の少年を引き取ってはくれないか、要約すればそんな文章が手紙に綴られていた。冗談じゃない、一生結婚する気すらないこの家に。
「なに、彼が成人するまでで良い、あっという間だよ。俺は急遽海外勤務が決まってね……」
***
国鉄の列車が走る線路に木造の駅舎が音を立てて軋む、そんな冬の朝だった。午前九時には着くと聞いた、その迎えに来てはいたものの『新たなる家族』を迎えることについて私は未だ納得はしていなかった。
列車が到着して乗客が改札を抜けて行く。件の少年についての特徴を聞いたが、私は疑いしか持ってはいない。
金髪に紺碧の瞳、美しい子だよと兄は笑った。しかし遠縁とは言えそこに外国の血の繋がりがあるなんて今まで聞いたことはなかったのだ。
「あの」
突然背後から声をかけられて息を飲む、振り向いた先にいたその姿は。
「黒島朝陽(くろしまあさひ)さまですか」
「あ、ああ……」
凛とした耳によく通る声だった。まるで鈴の音が鳴るように彼は言葉を紡いでゆく。
「メメントです。メメント・フジハラ、初めまして今日からお世話になります」
兄の言った通りだ金髪に紺碧の瞳、にこりと笑ったその顔は小柄な少女と言っても構わないくらい美しい少年だった。
***
「ゲホッ、ゴホンゴホッ……」
冬の刺さるような空気が胸を刺す。咳き込みながら歩く私の後ろをメメントは右足が悪いからと瞳と同じ色の紺碧の杖をついて歩いていた。その独特の足音が気になり何度も振り返っては立ち止まる。
「この坂、まだ続くが大丈夫かい?」
「杖をついているだけで僕なりに歩けているんですよ。ご心配なく大丈夫ですよ、歩きづらくみえるかもしれませんが……ああ高台の景色が見えてきましたね」
真昼の海が静かに今日も動いている。時の流れをなぞるように……そして今日も我々は生きているのだ。
「僕は東京から参りました。東京の若者はやたらと群れを成しては、ギターを持ち出し大騒ぎをしている。それに比べたらここはなんて穏やかな風景でしょう。流行りの音楽が嫌いなわけではありませんが……あの街は騒がしくて、眩暈までする」
「ああ、新宿なんてだいぶ変わってしまったらしいね。高層ビルが増えるんだろう? 私も一時暮らしてはいたが……どうにも馴染めない土地だった。相性が合わなかったのだろうね」
「作家や詩人の方にとっては創作意欲が刺激されて、いいんじゃないですか?」
「いや、私はそんな大層なものではないよ」
メメントは高台からの風景を仰いだ。そのキラキラと光る瞳はまるで宝石のよう、最初は人形が言葉を発しているかのような印象しかなかったが、その表情には明らかに感情が込められている。彼もまた、この世界で必死に生きていた。
(つづく)