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病と同居した心の毒。 体調不良描写ありの失いたくないその手に触れる、鬱々としたBL小説(全年齢向け)を書いています。 ここは同人誌のサンプルページです。
2022年11月19日土曜日
呪禁と角隠し/A5/50ページ/完結済み/全年齢
2022年8月18日木曜日
無音の縁/A5/48ページ/一冊完結済み/全年齢
(サンプル)
◎白骨画家◎
「ねえ、君は大河の描いた噂の新作を見たかい? いままでこの世の闇をぼんやりと淡く描いている二流画家だと思っていたが、仰天したよ。最近の作品は最早、芸術の域だね。しかし彼の絵にモデルが実在すると言うのも問題だ、一体どうしてあんなに美しくも痩せ細って」
「それは全て白骨画家、大河の妄想から出来上がったものだと聞いたがね。彼の調教が名もなきモデルの運命を変えた。なに、元々美しい人だったのだろう」
若き画家、大河詩情(たいがしじょう)の個展は盛況だった。展示されているのは世間に衝撃を与えた個性的かつ静寂を描いた筆の跡、この界隈では現在彼の新作を求める声がやまない。金持ちの蒐集家は莫大な値段で次々と彼の絵を買い取って行く。しかし人々の中心にいるのは二十歳そこそこのあどけなさをのこす青年だった。つり上がった赤い目をして、ああだこうだと芸術論を交わす人々を笑っている。赤のシャツに黒のレザーパンツ。脱ぎかけのヒール靴の隣には空いたウイスキーの瓶、彼は取り巻きにもっと酒を買ってこいと札束を投げつけた。
「ふうん白骨画家とは考えたものだな。確かにあの人から無駄な肉を削ぎ落としたのはおれだけどね、いまではもう骨も透けてきそうな……まあ、あれはある種生まれついた才能だが」
そうして青年は足を組んで、オイルライターでくわえ煙草に火をつけた。ふう、と隣の女装家に煙を吹きかけて、それに彼がむせ込むのをみて声を立てて笑った。
「おれはね、別に一生絵を描きたいわけじゃないんだよ、これも一種の暇つぶし。ただあまりに兄さんが暇そうにしているから少し遊んでやっただけだ」
***
高級住宅街に土砂降りの雨が降る。干しっぱなしの洗濯物は表に出されたまま、それをリビングの赤いカーテンの隙間から外を覗く人影があった。
秋の終わり、今日は朝から気温が上がらないため室内も冷えていた。長い髪に黒の着物を引きずって、袖から覗く手首は白くあまりに細すぎる。大きな目に身体に比べれば痩せこけてはいないが、造りの美しい人形のような顔。しかし顔から下は比較するとあまりに痩せすぎていて骨格標本と言われても信用してしまいそう。一本一本数えられる皮膚の下の骨格、それもこれもかの弟の加虐的支配のたまものである。
「大島さん、おられませんか」
彼は洗濯物が気になって家政婦を呼ぶ。しかしこんな雨の中大島は買い物にも行っているのかその返事は聞こえることがなかった。洗濯物なら自分で取りに行けば良い、しかし食事をろくにとってもおらず体力のない病弱な青年は、庭に出ることも禁じられていた。日々、部屋から出て来るだけでも立ちくらみがして息が切れる。女性と見まごうその姿もこの頃ではほぼ自分の部屋からも出ない日が続いていて、日に当たらないせいか青ざめるほどに白い肌をしていた。
彼、真木静加(まきしずか)は昨晩から熱を出していて横になって半日、雨の音で目を覚ました。この家には他に誰もいないようで、ふらつきながらグラスにピッチャーから氷水を注ぐ。渇いた喉に染み渡る、日々この決められた量の水だけが飲んでも良いと許されていた。甘いジュースやアルコールの類いを彼は飲むことを許されてはいない。水分不足でかさついたくちびるが少し潤った、熱を出してひどく寝汗をかいたからだろう。
静加が寝込んでいても誰も医師は呼ばない。この姿を見たら即座に入院させられてしまう、それくらいの体調だったからだ。太ったら価値がない、そう言われ続けた彼の人生は高校卒業後自宅に引きこもりの日々が続いている。元々痩せた身体をしていた、華奢な骨格もあるのだろう。黒の着物はかの人の趣味、それを乱れはだけさせてモデルにすることは、どこか見た者の罪悪感を刺激する。
彼の実弟は白骨画家、大河詩情こと真木泰我(まきたいが)。今日も彼は帰宅する様子はない。
「ケホ、ゴホッ!、コフッ……」
咳こんでいると眩暈がしたせいで静加はぐらりと揺らいで壁に寄りかかり目を閉じる。近頃の静加は日中の食事は許可されていなかったので朝に果物と夜に野菜類を一皿。その病的な食事量も全て泰我が決めたものだった。兄をいかに太らせてなるものか、その執念がそこには見える。体重計には一日何度も乗せられて、前日より痩せていると彼は静加を褒めた。褒められて悪い気持ちはしないものの、一方では重い貧血と体力不足に悩まされている日々が続いている。時期関係なく風邪もひきやすく、今日も熱はまだ微妙に残っていて胸は痛み、時折咳き込んではその場に座り込んだ。
通常の生活を送るためならここまで痩せる必要はない。しかし生活力のない静加は、現在最も勢いの良い評判の画家である泰我に頼ることしかできなかった。静加の幼い頃からの病弱な体質で、さらにこの生活だから年を経るごとに起き上がるのも困難になり孤独な彼には友人もいない。
友人と言えば高校時代、静加は同級生の男子生徒につきまとわれたことがあった。ただ彼が友人になりたいのかと静加は心を許したが、彼は静加に対して性的な情を寄せていただけだった。誰もいない教室に連れ込まれては力の強さでは敵わない静加を押し倒す。拒絶したいが、こんなことをされているとは誰にも言いようがない。その頃はまだ骨格もここまで浮いてはいなかったが、白い皮膚はそのままで首筋に内出血の痕があるのを、泰我が目ざとく見つけて問いただす。
「兄さんに触れたものがいたんだね?」
「いや、その……彼だって本気じゃないんだよ。きっとただふざけただけで」
「汚いなぁ、悪ふざけにも限度がある。許せないね……憎たらしい」
当時の泰我は中学生。髪を真っ赤に染めてろくに学校には通わず、しかしカリスマじみた個性で独自のコミュニティには所属していて、彼の声で集まる友人は多かった。その人脈を使い、泰我は静加の高校の正門前で待ち伏せをした。彼らの派手な様相は生徒をざわつかせて、静加と件の友人をとりかこんだ。周りには遠目ながら何が起こるのかと野次馬根性を出した高校の生徒達であふれていた。
「や、やめてよ、泰我……」
「はじめまして。お前が兄さんを汚したのかい」
友人は辺りを囲まれて息を飲んで後ずさりをした。しかし泰我の仲間である体格の良い男が彼の肩をつかんで逃がさない。泰我の目は狂気を含み、一切笑ってはいなかった。
「な……何のことだ、しらな……グッ!」
その光景を誰もが止める間もなかった。泰我の手が、友人の首をギリギリと絞めている。悲鳴を上げた静加は慌てて止めようとするも、泰我の仲間に拘束されて口を塞がれて、ただ友人が呼吸困難になり泡を吹いているのを見ていることしかできない。その事態に気がついて、慌て駆けつけた教師も泰我の狂気に言葉を失っていた。それでも泰我はなんとか取り押さえられて彼も幸い死に至ることはなかったが、だらりと力が抜けて白目をむいて倒れこんだ友人は、その日から学校に来ることはなかった。
この騒ぎで住宅街の住人は真木の家に近寄ることはしなくなった。それからは年中一切来客もなく、セールスの電話すらも鳴らない。泰我の悪評はそれくらいこの街に知れ渡っていたのだろう。しかしやがて中学卒業後に通った高校を泰我は一ヶ月で辞めてしまった。教師に腹を立てて暴力を振るったのが原因らしい。暇を持て余した泰我は頻繁に寝込んでいる静加のそばにやって来ては、スケッチブックに絵を描いている。
彼は幼い頃から絵だけは得意だったのだ、勉強などろくにせずスケッチブックと鉛筆を大事に握りしめている子供だった。兄として寄り添っていた静加は、その姿を微笑ましいと眺めていたが、当時はその後自分が本格的にモデルに使われるようになるとは思ってもいなかった。
やがて静加が高校三年生になった年、当時美術学校に在学中だった泰我の絵が界隈で少しずつ評判になり、真木泰我は画家、大河詩情としてやがて国内外から注目を浴びることになる。
***
「ねえ兄さん、そのシャツ脱いでよ」
ある日、突然のその言葉に静加は何事かと立ち尽くす。梅雨の時期、頭痛や倦怠感に悩まされて静加が寝込みがちの時季だった。休日だというのに出かけることもなく寝込んでいた兄の部屋にやって来てその言葉を告げた泰我。部屋の鍵を閉めて、窓のカーテンも閉める。静加は戸惑いその本意を確かめようとするが、泰我は半ばにらみつけるような視線を静加に向けて何も言わなかった。
「泰我?」
「今度新宿で画展があってね、おれも新作をって思うんだけど良いアイデアが浮かばない。アイデアのない日はいつも一番好きなものを描くようにしているんだ。だから今日は兄さんを描きたい、その薄い身体をデッサンしたいんだよ」
突然の言葉に戸惑う静加を泰我は突き飛ばしベッドに押し倒す。そして乱暴にシャツを剥ぎ取り、白い肌は露わになった。
「へえ痩せているように見えるけど、まだ骨格はそれほど浮いていないんだね」
「た、泰我、なに……」
「おや、怖いの? 心外だなあ、別におれいじめているわけじゃないのに。でも、その怯えた顔も悪くないね」
脱がせたシャツで泰我は静加の後ろで両手首を拘束した。ベッドのうえで横たわった静加は身動きすらも許されない。
「綺麗だ、兄さん喜んで、大河詩情の筆が進みそうだよ。この絵でおれは世間の結果を出してみせる、だから兄さんも協力してね。あんたを描いて良いのはこの世で唯一おれだけなのだからね」
そして泰我はケタケタと笑い声を上げる。その日から長く静加に対する狂気じみた飼育が始まったのだ。
***
「ハァ、ハッ……う、うう」
「苦しいの? 余分なものを流してしまうためなんだよ。ほらあと十分、汗を流して身体を絞って」
「あつ、熱い……あつい、くるし……」
「汗を随分かいているからね、これで余計な水分は大分流しきったかな」
熱い湯をはった浴槽に浸からされて、静加は朦朧としながら滝のような汗をかいている。朝から何も食べさせられず、浴室に閉じ込められて二時間がたった。泰我がどこからかもらってきた無数の真っ赤な薔薇の花びらの浮かぶ浴槽で、湯の熱さに静加の意識が朦朧とすると途端に冷水を掛けられ覚醒を促される。
この行為は毎週数回におよび、半ばある種の儀式のようになっていた。それは静加が湯あたりして意識を失うまで続けられる、汗をかくから水分は抜け体重は減って行くが、その分静加の負担は重い。そして浴室から出してもらえる頃になっても、水分はたったコップ一杯しかとることが許されなかった。
静加は喉の渇きも十分には癒やせずに、立ち上がることも出来なくなって脱衣所の床に転がり、一方で見せつけるようにブルーサイダーを瓶で飲む泰我を、じっと見つめていることしかできなかった。
「ねえ、ご両親はなんて言っているの?」
それは静加が学校であまりにも痩せてしまった理由を、担任教師が問いただしているときだった。学校も休みがちになりこのままでは留年も近づいている。しかし登校するたびに静加の顔色は悪く、制服姿からでも骨格がよくわかるほど痩せ細った体型に周りが気がつかないわけじゃなかった。
「父親の会社の海外勤務に母はついて行きました。だから最近は帰って来ていません」
「じゃあ弟さんと二人……絵のモデルと言っても、そんなに痩せる必要はないじゃないの」
「同意の上でのことです、全て自己責任とはわかっています」
その言葉には多数の嘘が含まれていた。両親は確かに海外にいるが、すでに仕事は退職している。それは家庭内で癇癪を起こしひどく暴れることの多い泰我から逃げるためだった。高校生と言う理由をつかい、学校に行くために身動き取れない静加を餌にしてこの家を捨てて姿を消したのだ。
資産家の家系、両親の逃げたいまでも財産のある家で生活には困らず家政婦もいたが、基本財産の全ては泰我が管理していて、静加には何も言えることはなかった。ただ泰我の言うとおりに決まりを守って暮らしているだけ、痩せるために食事を減らし汗をかかせる。
また、それ以上のことだって泰我はさらに静加を痩せさせるためにはなんでもやった。そのおかげで元々の低体重はさらに減ってそろそろ思春期前の女子中学生よりも軽くなる頃。痩せるほどに軽くなることわりは、まるで天使の領域だと、泰我は嬉々としてやつれた静加の絵を描いている。
過度のフェチシズム、のちのいわゆる白骨画家が生まれたのは、この頃のことがきっかけだった。
しかしいくら誰から痩せ褒め称えられても、静加の心は空白で、全ての言葉はどこかぼんやりとして届かない。
結局、高校三年生は留年してしまった。泰我はしつこく退学を勧めたが、二十四時間泰我のそばにいる生活には堪えられない。そこにはうっすらとした危機感とそう遠くない死の光景が見えていたから。
二回目の三年生。教室では受験勉強にいそしむ同級生が増えていたが、さすがにそこまでの気力はない。具合の悪い静加に担任はなにかと声を掛けてきたものの、静加は大丈夫を繰り返した。しかし体育の授業で倒れることも多く見学することも多くなり、栄養不足で頭が回らず授業について行くのも精一杯。しかしその頃家では泰我が不良仲間を呼び寄せて、朝晩構わず騒ぎ立てていた。おかげで静加は家に帰っても静かに眠ることも出来ないで心が安まる時間がない。
誰にも何も言えなかった、この悪夢の様な日々の連鎖を。まだ助けを求める猶予はあったものの、しかしそれを泰我は許さない。ただ、食事に関しては登校してしまえば朝から晩までは泰我の目はないから多少自由に口にすることは可能だった。飲み物も喉が潤うまで飲むことは出来る。
そうして静加は命をつないでいたのだが、泰我はこの頃体重の減りの進まない彼をいぶかしんで、あるとき強く責め立てた。来客のいる中、泰我は部屋の鍵を閉めて、静加を壁際まで追い詰める。
「モデルは画家のためにいるんだよ。それを醜く太ってまで生き残ろうだなんて、まさか思ってはいないよね?」
「お、おも、思ってません」
「本当かなあ、その言葉に多少の嘘も含まれていないと自信をもって言えるの?」
「あ……」
「ク、兄さん、甘いよ、僕を騙そうだなんて」
リビングでは、宴会でも開かれているかのように下品な男達の笑い声が響いている。その異常な家庭内で、その日から何があっても外に出ることも許されず、静加は自室に閉じ込められて一層厳しく管理された日々を送ることになる。
***
「大河詩情の新作だって、ああ、今度は一層攻めてきたようじゃないか」
「このモデルはさらに痩せたんじゃあないのか。こんな身体でよく生きているものだね」
「どうせフィクションだろう?」
「いや、大河詩情は嘘を描かない」
大河詩情が現れて数年がたっていた。その頃は彼の人気は安定たもの。熱狂的なファンが集う絵画展では彼の最新作の話題で持ちきりになっていた。蒼白の冬の明け方を思わせる部屋で、長く何かを求めるように伸ばされた白い手と数えられる肋骨のリアルさと言えば、以前は幻想的でどこか甘い印象を残していた彼の絵とは違い、一気に薄暗くリアル寄りを極めて限界まで痩せたモデルの詳細を描く。しかしそれでもふんわりと色気の残っていたかつての彼の筆遣いも見え、世間はそれを大河詩情の新境地でもあるとした。
芸術雑誌の記者が何社も彼にインタビューを申し込む。謎の多い大河詩情の本当の所を探ろうと言うのだ。暇つぶしの余興にと相手をすることにして質問に答える泰我だったが、その陳腐さやオブラートに包まれたいやらしい質問ばかりに答えることが面倒になってしまって、半ば適当な答えを返したため、世間はさらにその謎を深める。彼が独自のファッションへのこだわりが強くなったのもこの頃で、貴金属は若いながらも高級ブランドのものしか身につけない。それでも余って仕方のない程の財産はあった。泰我はこうしてますます浮世離れした存在に成り果てる。
一方の静加は結局高校に通うことすら困難なほど体力を失った挙げ句、卒業をあきらめ中退して以後は屋敷内から出ることが許されなかった。静加に痩せることを強いた泰我だったが、求めるものは運動して筋肉をつけて引き締められた身体ではない。無駄な肉を失ったぞっとするほどに細すぎるほどの骨と皮。そして人形染みた美しい顔、ただそれだけをしつこく求めていたのだ。
両親とともに暮らしていた頃から家政婦の大島は泰我の静加に対するその仕打ちをみていた。静加を幼い頃から知っているため、痩せ果てて寝たきりにも近い生活を時に涙を浮かべながら。しかし目を盗んで握り飯の一つすら与えようものなら、大島自身、泰我に何をされるかわからない。二人きりになった時の会話はなかったが、せめてもと静加が度々貧血で意識を失い転倒した際には、負った傷痕を見つけてはただ優しく薬を塗ってくれた。骨と皮の身体に、嘆き震えるため息を繰り返しながら。
「お、大島さん……野菜は太りませんか?」
その日、酷く怯えた様子で食卓についた静加が大島に問う。泰我は留守だ、彼の命じたとおりの献立が静加の元へと出される。献立と言っても塩を振られた生野菜がプレートに載せられただけの、酷く質素なものであったが。
「いえ、この程度じゃ太るどこか……」
「たった数グラムでも体重が増えたら泰我に怒られてしまいますから」
「静加さま……」
この頃では泰我は常に酒を飲みながら絵を描いている。泥酔した彼は時に暴力的で、静加に対しても気に入らないところがあると容赦なくその頬を叩くなど、危害を加えることが多々あった。畏縮しきった静加はこの多少の食事だけでも遠慮するようになり、この少ない食事すら口に出来ない日々が続いていた。
その日もまた、明け方まで飲み歩いて酒臭い息を吐きながら帰宅した泰我はノックもせずに静加の部屋のドアを乱暴に開けた。
「た、泰我……」
「よう、なんだよ良い気分で寝やがって。お前は毎日暇で良いよなあ!」
「……」
「おれは仕事に追われていてさ、しかし……なんだか、お前太った気がするんだけど?」
「食べてない、僕は決められた分しか」
「じゃあその寝間着脱いでみろ、骨が前よりも浮いてなかったらしばらく絶食させてやるからな」
静加が自ら寝間着である青い浴衣の帯を外す前に、泰我が胸元を乱暴に引き破った。その胸は見事に骨格が浮いている。露わになると以前と変わらずむしろすすんだ。あまりに病的といえるほどの細さが。
「ふうん、綺麗だ。でもそうして痩せていることでしかあんたの価値はないんだ、覚えておけよな、兄さん」
窓の外は白い雪が降っている。部屋の隅の石油ストーブがじりじりと部屋を暖めているが、静加の身体は栄養不足に冷え切ってただ小さく震えていた。そっと彼の胸元に頬を寄せた泰我が静加の心臓の音を聞いている。彼は静加をベッドの上に押し倒し、やがて皮膚の向こうから聞こえるその音を子守歌代わりに聴きながらいびきをかいて眠りだした。そう、こうしていることしか許されないのだ。歪んだ実の弟の性癖に狂わされて、今後すら見えない静加のむなしい人生は……。
***
そんな日々に変化が訪れたのは冬を越えた翌年の春だった。日々遊び歩いて女性をとっかえひっかえに、しかしそれでも静加だけは放さなかった泰我の遺体が付き合いのあった女性の一人と早朝に川からあがる。当初芸術家の勢いに任せた気まぐれな無理心中だと思われたが、真実は泰我の仕事のマネージャーをしていた男性に意識が無くなるほど酔わされて、女性とともに川に突き落とされたらしい。男性は財産を大方奪って逃走し、現在も見つかっていない。
突如訪れた現実を信じられずに呆然とする静加、残ったのはひどく痩せ衰えた自身の身体と、泰我が自宅に遺していた数点の絵画だけだった。
百花情景に時は流れて/A5/44ページ/一冊完結済み/全年齢
(サンプル)
【金色の糸】
季節は白い息を吐き出しながら、もう秋も終わってしまうね、と通りすがりの世間話が聞こえてくる。夕暮れの学生服姿の青年は一人、もらい物の古い自転車を操りながら風を切って住宅街を走っていた。彼はのんびりとして少し閉鎖的な、小さな村に住んでいる。通り過ぎた家々ではもうすぐ夕食を囲むのだろう、辺りに広がる調理した食べ物の匂いに、さて今晩何を作ろうかなんて考える彼はその見かけよりも所帯じみている。
鬱蒼とした木々が見える古い木造の平屋の屋敷の玄関の脇に自転車をとめて、彼は玄関の引き戸を開けた。薄暗い家、けれど履き物もあるしあの人はいるはずだ。乱暴に靴を脱いで急いで片手でそれをそろえて、しかし鞄を玄関に放り出しながら足音を立てて奥の部屋へ向かう。彼は元気にしているのだろうか、なにしろ朝はひどく具合が悪そうだったから。そうしてたどり着いたのがいわゆる作業部屋。そのふすまを開けたら、痩せて背中を丸めた青い着物姿の青年がいた。
「ああ、おかえり。今日は随分と早いじゃない」
「委員会の仕事をしていたら遅くなって、図書室のいつも席が空いてなかった」
「窓際の後ろの席? いいじゃないの、どこの席だって」
「他の席じゃ勉強が勉強が進まないんだよ、それより何で寝ていないんだ」
「昼間は休んでいたよ、もう、そんな顔して……起き上がれるようになったから心配しないで」
なんだ、家族が心配して何が悪い、そう言いたかったが少し戸惑う。幼い頃のように感情のまま背中に軽々と抱きつけたらよかった。しかし高校一年生、背はすっかり伸びて、いまでは村で一番の高身長にまで成長した。
「わあ、窓の外! 見たかい颯史郎(そうしろう)くん、外は夕焼けが美しいね。君はこんな中を帰って来たの」
「別にいつもの風景だよ」
しかし、彼はそれが美しいと。年をとったのだろう、かつての彼、鏑木理桜(かぶらぎりお)ならそれこそ風景なんか気にもせず、朝から晩まで仕事に夢中で生きていた。
「颯史郎くん……あ、ッ」
「理桜」
理桜が急に胸を押さえて息が止まった。あわてて颯史郎はその背中に触れる。痩せて随分と骨張って、いままで颯史郎の知る彼ではないよう。近頃では食欲もすっかり落ちてきていたし、寝込むことも多かったから。
「ごめ、ごめんね。大丈夫、すぐにおさまる……」
「また横になっておけよ、なにか食事作るから」
そっと理桜を抱きかかえるように支えながら、部屋の隅に畳まれた予備の布団を敷いてその身体を横たえる。しわが目立つ敷き布団で仕事をしながら寝ては起き、そんな一日を過ごしたのだろうか。彼が今日一日を送った作業部屋に置かれた作業台の上には、金色に輝く糸で縫いあげられた、煌びやかな刺繍作品が大切そうに置いてあった。
***
鏑木颯史郎が母を亡くしたのは十歳のときだった。元来鏑木家の女性は皆短命で、颯史郎は幼い頃に亡くなった祖母を覚えていない。婿入りした父はいつもぶらぶらと遊び歩いていて、いつの間にかいなくなった。
鏑木理桜は母、頼子の一回り下の弟だった。早くに亡くなった祖母の代わりに姉が育てたのだという。高校から市街にある美大まで通わせて、そんな彼と一緒に幼い颯史郎も育てた。颯史郎にとって理桜はともに育った兄弟のようなもの。母に似て穏やかで優しい理桜の印象は、幼い頃から変わってはいなかった。
鏑木家には代々女性に生まれると百花彩葉針(ひゃっかいろはばり)と言う刺繍技術を受け継いで行く伝統があった。それは母も、幼い頃夜なべして刺繍の仕事を懸命にこなしていたのを思い出す。しきたりとして村の結婚式ではこの刺繍を施した着物を着て皆、晴れの日を迎えるのだ。しかし、母は若くして亡くなり、今この技術を持つものは理桜と親戚数人しかいなくなった。男性である理桜がこの技術を受け継いだのは、類い希なる美術の才能と母に女の子供が生まれなかったからである。そんな価値のある技術が、もうじき絶え果ててしまおうとしていた。認めたくない現実だったが、身体が弱く病の床にふせる理桜の姿をみれば、それを考えないではいられない。わかっているから、わかりたくない。颯史郎の心は複雑だ。
【帰ってきた男】
炊き込みご飯と魚の干物、野菜の味噌汁。もらい物や八百屋で特売されていた食材を使って質素ながらも日々暮らしている。旧型の炊飯器の様子を見ながら、颯史郎が今日使った弁当箱を洗っていると、玄関から大声をあげて靴を放り投げて室内に上がり込む気配がした。ああ、あの男も帰ってきたのか。
「うるさい声を上げないでくださいよ」
「よう! お前今日帰るの早かったじゃないか。一緒に帰りついでに荷物を持ってもらいたかったんだが」
「そんなもの、自分で持ってください。俺は荷物持ちじゃない」
「教頭にもらったんだ、熟れたりんご十個。甘いから食欲の無い時にも食べやすい、理桜はどうしている?」
「眠ってます、仕事で疲れたみたいで」
「あいつは無理するからなあ、りんごむいてやれよ。旬の果物は身体に良いんだぞ」
ジョー先生。学校でそう呼ばれている分だけ、生徒に親しみをもたれているのだろうか、しかし少なくとも颯史郎は彼を良くは思わなかった。彼は理桜の幼馴染みの藤間譲(とうまゆずる)、颯史郎の担任教師。先日離婚して以来鏑木の家を住まいとする、全くもって迷惑な話だ。アパートくらい借りられるだろうに食事風呂付きを良いとして、荷物まで持ちこんでしまった。二階の奥の部屋を自室にして毎晩寄り道もせずに帰って来る。たまには食事位、食べてくれば良いのに。
「いただきます! あ、颯史郎、俺のご飯は大盛りで」
「……残ってない」
「ジョーくん、僕の半分食べても良いよ」
「おお、じゃあもらうよ理桜、悪いな!」
「おい理桜、やるな」
「なんだよ颯史郎! このケチ」
「ケ……」
理桜のために食事を作っているところもあるのだ。それをジョーは良いことに山盛りめいっぱいかきこんでしまうのだから。それにしてもここ最近、理桜の食事量が減っていた。彼の好きな食べ物と言えば野菜だの豆腐だの、それは多少の栄養もあるだろうがまるで力になるところがない。
「俺、明日は揚げ物が良いなあ、夕飯」
「明日も家で食べるつもりですか」
「食べるよ、明日もあさっても」
そう言ってジョーはご飯をおかわりした。颯史郎がまだ箸をつけはじめたところだというのに、三十一歳にして高校男子よりも食欲があるとは問題だなと颯史郎は思う。ため息交じりで颯史郎に盛られたおかわりをジョーは嬉々として口にする。けれど颯史郎も今夜の炊き込みご飯はいつもよりも上手く出来たと自負していた。
「理桜ももっと食べろよ、おかわりも」
「うん、ありがとう、十分食べてるよ」
「なあ颯史郎、あとでりんごむいてくれよ」
「ジョー先生は自分でむけば良いじゃないですか、大人でしょう?」
「なんだ、つめたいの。理桜にも食わせるんだよ、果物好きだったよなぁ」
「うん、嫌いじゃない」
ならば後で彼のためにりんごをむこう。理桜は穏やかな顔をして、静かに味噌汁に箸をつけていた。
***
「うるっさいな……」
「疲れていたんじゃない? お酒もすすんでいたし。でも美味しいね、りんご」
畳に寝っ転がって、一人酒盛りをしたジョーがいびきをかいて眠っていた。うるさいなんてものじゃない。室内で工事でも行われているような轟音が響く、村のはずれにあるはずのこの家で。りんごを食べ終わり皿を洗おうと颯史郎が立ち上がれば理桜も気を遣って皿を抱えて立ち上がった。その足元がふらついていたので、颯史郎は理桜に座っているように促した。
「俺がやるから大丈夫だ、静かにしていろ」
「でも……」
「いいから、今日は顔色も悪いし、そろそろ休んだ方が良いじゃないのか」
「なにもかも颯史郎くんに任せてばかりじゃ大変でしょう?」
「もう慣れたよ」
幼い頃は母を手伝って理桜が家事をしていた時期があった。その頃に颯史郎は理桜から家事を教わったのだ。今日の炊き込みご飯だって元々は理桜が作っていたもの。その理桜もまた母にたくさんのことを教わったと言っている、全ては皆、受け継いできた。美味しいご飯も理桜が窓の外の月を見上げる優しい時間も。
「ねえ颯史郎くん、今日はどんな一日だった?」
【別れ話】
「ケホッ、ゴホン……」
早朝の空気が肺に冷たくて少し咳き込んでしまった。早起きをした朝には箪笥の上に飾った白黒写真に庭で咲いた花を供えて、線香を小さく折って火をつけ手を合わせる。今日は姉、鏑木頼子の月命日だった。あの日、理桜は姉を失って颯史郎は母を失った。理桜は幼い頃に亡くした母を覚えてもいなくて、姉頼子が母親代わり。
なにしろ歳の離れたきょうだいだったから理桜も颯史郎と同じように母を失ったようなもの。心の中ではいまだこれから何年たっても寂しさは消えない。最後に残ったのは姉が最後まで伝えようとした伝統だけだった。
百花彩葉針、姉や母、今はもういないその人達の伝えたものが今も理桜のそばにいる。今度は貴方が伝えるのよーー美術大学に通っていた当時、教え込まれた技術だった。しかし姉にそう言われはしたが、現在結ばれたい誰かが特にいるわけでもなく、おそらくこの技術は誰にも伝えることなく消えて行くのだろう。颯史郎は頭の良い子だったが、才能があるかないかで言えば一般人として普通に働いて暮らしていく方が良いと思えた。芸術的な才能は未だ見える様子が無い。
午前五時過ぎになって颯史郎が起きてきた。すでに学生服に着替えて身支度は済んでいる。朝食を作るつもりなのだろう、家事の才能はある様子で何でも器用にこなしている。
「おはよう、颯史郎くん」
「早いな、理桜……ああ、今日は」
「線香をあげて手でも合わせてやりなさい、ここからは見えなくとも姉さんはきっと見ているよ」
「……はい」
颯史郎は家族はいなくとも可哀想な子供に育てたつもりはなかった。しかしこの頃では体調不良が多く家のことは任せがちになってしまっていたが、理桜だって料理くらいは出来る。颯史郎は何も言わなくともいつもそばで理桜を見ていた子供だった。やがて一緒に食事や家のことをやり出して、いまでは理桜よりも料理は上手いし家の管理も抜かりない。彼の作る焦げ目一つない黄金色の卵焼きは、毎朝の食卓に欠かせないものになっている。
「ああ、なんだよお前ら早いなあ……」
六時を過ぎようやくジョーが起きてきた。乱れた髪と薄汚れた寝間着のまま食卓について、酒臭いあくびをする。彼は幼い頃から変わらずに特にこだわりも無くおおらかなまま生きてきた。小学校から高校まで理桜とジョーは同じ学校に通い、その後市街の大学に通っていたからお互いの人生についてよく知っている。理桜が家で刺繍を厳しく教えられている頃、ジョーは大学で人生初めての大恋愛をしていた。同じ高校教師志望の同級生。聡明な女性、理桜は数回会ったことがある。少し気は強いが真面目で真摯に生きている印象を抱いた。頭は切れて会話の展開もはやい。ジョーはそんな彼女に一目惚れをして二人の恋は始まり、結婚したのは二十五歳の頃。ちょうど理桜の姉が亡くなった年だった。
「いただきまーす、でかい干物だなあ!」
「ふふ、お隣さんから美味しいからってもらったんだよね」
「丁寧に食べてくださいよ、高いものだしもったいないから」
「わかってるって、朝からごちそうじゃないか!」
食卓が広がる。ジョーは朝からご機嫌で、大盛りの米を茶碗に盛って。
理桜の生まれて初めて製作した百花彩葉針の作品はジョーの結婚式の着物だった。初めて針を通すとき酷く緊張したのを覚えている。その頃は朝も夜もない生活をして、毎日颯史郎を小学校に送りだしながら三ヶ月掛けて晴れ着に刺繍を施した。その作品を姉に実際見せることは叶わなかったが、いまでもあの作品が理桜の最高傑作だったと思っている。
しかし今年になって、その二人がまさか離婚と言う道を選ぶとは……結婚して数年後に生まれた三歳になる娘の名前は麦。ジョーの元妻のもとで違う父親の子供としてこれから生きてゆくのだと言う。慰謝料代わりに彼女に渡したジョーの学生時代からの貯金で建てた屋敷はこの村にあるから、いつか偶然会うこともあるだろう。けれどもう話も出来ない。
離婚の理由は生活のすれ違いだとか……この件については多くをジョーは語らないが、あれだけ彼女に熱をあげていたのだから、最後まで妻のことを想ったに違いない。きっと二人が幸せになるために自ら身をひいたのだ。そうしてジョーは理桜の元に帰ってきた。その理桜にともに暮らしている颯史郎がいることは息子のようで、多少の救いになっているのだと思う。颯史郎は嫌がるが、ジョーなりに颯史郎をかわいがっている。
「おかわり」
「ないですよ、残りは弁当に使いました」
「おっ、それはありがたい。昼飯は学食だと足りないんだよなあ」
「あなたのぶんじゃありません、理桜のですよ」
「……ジョーくん、よかったら持って行く?」
「おい理桜!」
颯史郎がジョーをにらみつけている。しかし早々に卵焼きと米を食べ尽くしてしまったジョーは理桜のための弁当の包みを、颯史郎が良いと言っていないのに早々に鼻歌交じりに鞄にしまい込んでしまった。
「いいよ颯史郎くん、僕は残り物で。なんだかあまり食欲なくて……そう、昨日いただいたりんごもあるし食事は自分で済ませるから」
「そんなことじゃますます調子を崩して痩せるじゃないか、身体に良くないよ」
「大丈夫だって、弁当だってたくさん食べたい人に食べてもらいたいと思うよ。颯史郎くんの作る料理美味しいしさ」
「まったく……夕飯は残すなよ」
「はあい」
家事を終えた颯史郎と生成りのシャツを羽織った寝癖混じりのジョーは、午前七時を過ぎる頃学校に向かって出かけていった。理桜はその背中をにこにこと玄関から見送って。
「いってら……ック、ああ……」
二人の背中が見えなくなったところで、理桜はまたしても胸の痛みに耐えきれずに玄関に座りこんでしばらく息が止まった。
「ヒッ、ヒュ、……ッ、はぁ、は……っ」
亡くなる間際の姉も胸の痛みをよく訴えていた。壊れた身体もまた、きっとこの家の呪われたしきたりのようなものなのだろう。
2022年3月20日日曜日
声は鳴く/A5/116ページ/一冊完結済み/全年齢
(サンプル)
【声のかたちを失って】
都内、住宅街。
その日乱れた髪を直すこともせず、一人の痩せた青年が屋敷に向かって頭を下げていた。
荷物はリュックサックひとつ、土産も持たず。
『今日でこの家を後にしようと思います。
いままでありがとうございました。
僕のことはどうか、忘れてください。
生まれてきてしまって……すみません』
***
上京前日、春の始まりは毎年特に思うところなどなくいつもただ人々を見送るだけだった。しかし今年は少し違う、まさか自分がここでその一歩を踏み出そうとは。しかしその頃の精神状態は人の幸せが許せなくって、何なら皆でそろって奈落の底に落ちれば良いのだと思っていた。自分だけが不幸なんて思いたくない。
「律風、あの話だけどな、別に断っても良いんだぞ」
御津屋律風は日々を持て余していた。大学を退学したのが半年前、たったわずかな一年半の大学生活を思い出して懐かしむことが出来るほど、まだ余裕があるわけでもないし、しかし自由を手にしたといえるほどこの町を思いのままにうろつけるわけでもない。小さな田舎町だから噂はすぐに回る、かつての同級生もまだ、暮らしている。
律風の父は職業画家で、今日も庭の納屋を改造したアトリエに朝からこもって仕事をしていた。着古した仕事用のエプロンには乾いた油彩絵の具が何色もこびりついている。そんな父を尊敬して憧れる、そんな頃が律風にもあった。別に今でも尊敬はしているが。
することもないので朝から律風は大きな身体をして細かく家中を掃除して換気をし、昼食のたぬきそばの準備までした。午後一時、父とふたりでこたつに向かい合って、熱いそばをすすっている。
「どうするかは上京してみて考える。嫌だったらすぐに帰ってくるよ」
「覚悟だけはしておけ、東京は冷たい街だよ」
「……うん」
そばのつゆを一気に飲み干した。部屋が寒かったから身体が温まってちょうど良い。開け放った庭の垣根の向こうには未だ雪をかぶった山々が見えた。寒い町だ、けれど人との距離は近い。しかしその距離の近さが今の律風には居心地が悪かった。
『どうしてやめちゃったの、大学。県立大よね? 受験勉強も大変だっただろうに、もったいない。お父さんもあんなに喜んでいたじゃないの』
そんな言葉ばかり嫌になる程聞いた気がする。うるさい、放っておいてくれ。父は関係ないし、むしろいまの律風の心には父に謝罪の言葉しかない。学費を払ってもらって、この家で二人……ただ、自分自身がなりたい人になれなかったから退学の道を選んだだけなのに、なんて親不孝で残念な子だって。そんなのわかっているからどうかもうこれ以上こちらを見るな。
全ては父親経由で紹介された東京で住み込みのアルバイトの話がきっかけだった。
これから生まれて初めて父と離れて暮らすことになる。離婚した母のことは覚えていないが、父と子で暮らす生活は別に嫌じゃなかった。子供の頃は帰宅したら家事を手伝わねばならないことが嫌で仕方なかったが、今ではもう生活に染みついてしまった。そんな二十歳の青年は地味だし金も節約して、友人も少ないから滅多に飲み会にも誘われない。だから律風はこんな日々を変える覚悟をした。多分このままこの町にいたら変わらないまま自己中心的な、何も持たないろくでもない大人になってしまう。
そばの器を片付けて、換気していた縁側の障子を閉めようとした。今日もこの町の空だけは綺麗だ、なんとなくデニムの後ろポケットに入れてあったスマートフォンで写真を撮って。果たして東京の空は何色だろう?
上京前日、荷物を用意しながら父と話す。内容は大して心に残るものではなく、この家であったことの思い出話。良いことばかりではなかったが、悪いことばかりでもない。小学校から毎年一緒に食べた誕生日のエビフライが美味しかったとか、中学の時に思った以上に身長が伸びてしまって二年の半ばで制服を買い換えたこととか。あのときは申し訳なかったと律風が言ったら、父はただ笑うだけだったが。
荷物はリュックサックに小さなキャリーバッグだけだ。気に入っている本や服を数枚、服は季節が変わったら東京の方で買えば良いし。それでも最後まで迷っていたものがある、画材一式、でも多分もう油彩画なんて描かないし……そう思っていたら父が真新しい小さなスケッチブックを渡してきた。
「なに……?」
「そう嫌がるなよ、絵とお前は子供の頃からずっと一緒だったろう。落ち込んだ日にはらくがきでもすれば気が紛れる。別に大学を辞めてしまったから絵を描いてはいけないなんて規則はないよ」
「でも」
「まあいいじゃないか、これに鉛筆と消しゴムだけは持って行け、な? この家での思い出に」
キャリーバッグにはまだ余裕があった。いまいち納得しないまま、律風はそれを内側のポケットに入れる。もう、後の思い出は置いておく。うまくいかなかったらきっとどうせすぐに戻ってくるのだから。
【新宿の喫茶店】
新宿駅はまるで迷宮のようだった。地元の無人駅から比べてしまえば、もう思う方向には進めないし出口もありすぎてよくわからない。しかも人混みの中ではキャリーバッグが明らかに迷惑になっている。広告の並ぶ壁際に寄って、着信したメールの約束場所に向かわなければと律風はポケットの中のスマホを見る。新宿、特に歌舞伎町は危ない街だから気をつけるようにって何度も父が行っていた。しかしその歌舞伎町がそもそもどこで何なのかがわからないし、それ以前にまずはいま自分が駅のどこにいるのか、それが問題だ。
スマホと駅構内の地図で調べた結果、律風はどうやら自分が今、地下にいることだけはわかった。地上に出たいのだが、一体どこの何番出口から出れば良いのだろう。仕方なく、少し恥ずかしかったが今日会う予定の男性に電話をかけることにした。
すみませんここはどこですか、それは田舎者丸出しみたいで……しかし、そう気にしてもいられない。約束の時間は迫っていた。
「あの、……もしもし、はじめまして御津屋ですが」
***
「ああ、ようやくついたようだね。こちらにおいで」
新宿駅からビル街を抜けて、待ち合わせ場所だった小さな喫茶店にようやくたどり着いたのは約束の時間から十分を過ぎてしまっていた。
「すみません、途中、やっぱり迷ってしまって」
「東京が初めての君には新宿駅は申し訳なかったね、他の駅でもよかったのだが……」
白髪頭の男性は木製の小さな杖をテーブルにかけていた。七十歳近いのじゃないだろうか、いかにも優しい表情の彼は柳島総一と名乗った。先日、足を痛めてしまって不自由が多くなり急遽仕事を辞めざるをえなかったと言う。その仕事が父経由で御津屋律風に話の来た『都内大企業の社長の長男の家で、住み込みのアルバイト』だった。
「使用人と言ってしまえば前時代的な仕事だが、実質そうなのだから仕方がない。君、覚悟はあるかい? 他の仕事の方がよかった、と思うこともあるかもしれないよ。それもあと何年この街で拘束されるのか……」
「家事は実家で全て行ってきました。手先が器用だとは言い難いですが」
「君も絵を描いていたんだって? お父上の作品は目にしたことがあるよ、生田の旦那様が好きでね。古いお知り合い、そう聞いたけれど」
「同じ大学の出身、そう言っていました」
「ああ、そうだった。それはそれは青春の楽しい時間を過ごしたのだろうね」
大学にそんな青春があるのかは律風は結局わからなかった。輪の中に入ればきっとそれなりに楽しかったのだろうがいつもそこから外れてしまっていた彼にとって、それは想像するしかない話で。
「あの方は難しいところがある。苦しんで家を後にしてもう何年も変わっていない。今では外に出るときは言葉も失って……ああ」
「言葉を……? 何かご病気なんですか」
「精神的なもの、そうとしか言いようがないね」
そう言って柳島は眉間にしわを寄せて目を閉じた。何をそんなに悩むことがあったのだろう……しかし大人だと聞いた以上、赤子のようにずっとそばで面倒を見て、時には明け方まで抱き続けていなければならない、そんなことはないと思うのだが。
「君に覚悟はある、そう受け取っても構わないかい?」
「……はい、故郷を後にしてきた以上、しばらくは帰るつもりはありません」
「そうか」
喫茶店の窓からせわしなく歩き続ける無数のビジネスマンを見る。何しろ人の多い街だ、そこにはきっと様々な事情や感情が行き交っているのだろう。もはや自分もその中の一人、律風はまだ本当の東京を知らない。
「麻梨と言うんだ、生田麻梨。これから君が世話をして暮らす方の名前は。男性だが、女性のような名前だろう? 生まれる前から彼のお母様が決めていたんだ、最初は女の子が欲しいってね。つまりはそういう事だよ、君。わかるかい?」
向かう先は新宿からさらに電車を乗り換えて行く。何度目かの乗り換えである私鉄沿線は、駅を過ぎるごとに穏やかになり懐かしい緑も見えるようになった。しかし所々ビル、マンション群を見つけるとやはりここは故郷とは違うのだと実感する。律風の育った町は山の中で、電車は一時間に数本。コンビニエンスストアすら近所にはないから、父の車で日曜日には買い出しに出かけた。大規模スーパーマーケットでいつも買ってもらった買い物終わりのソフトクリームが懐かしい。それもここ数年は身体ばかり大きな男子学生が大荷物を持ってそんなものを食べているのが恥ずかしくて、父に何もいらないと言ってソフトクリーム屋を素通りして帰っていた。少しだけ残念そうな顔をした父を思いだす、父もソフトクリームを楽しみにしていたのかもしれない。親子の関わりは年を経るごとに少なくなっていた。幼い頃はずっと一緒にいたのに。
電車の前の席で窓の外を見ている少年がいる。隣の男性もまた父親なのだろう、脱がせた少年の靴を持って一緒に笑顔で窓の外を見ていた。彼らにとってもこんな時期は人生の中できっと少ない。
「まり!」
律風はそばの女子高生の声に振り向いた。席に座って笑い合う二人組のセーラー服姿、どちらかがまりだ。『まり』と言えば女子の名前の印象があるのにわざわざそんな女性の名前をつけられた彼は一体どのような人なのだろう。顔すら知らない、よくよく考えればそんな最低限の情報すら与えられずにここに来てしまった。ただ自分のどん底の人生を変えたいだけで故郷をあとにして……東京に出るのも良いかと思ったんだ。しかしもう少し考えるべきだったか。でも、もうここからでは、故郷の方が遠い。
その駅の名前を聞いて律風は立ち上がった。まもなく電車が目的の駅に到着するのだ、忘れ物はないか。リュックサックを前に抱え、キャリーバッグを持ち上げる。他に降りる乗客は少ないようでドアの一番前に立った律風はいま、その土地に降り立った。
新宿とは随分違う駅だ。改札口の数は一つ、よかった今度は迷わない。駅前には学生服姿の高校生と親子連れが数組、こんな旅行者じみたものが他にはいないから、律風は少し恥ずかしい。
ここからはバスに乗る。バス停には一台もバスが待ってはいなくて、どうやら時刻表を見ればもう十分待たなければならないらしい。だけど待つことには慣れている、むしろ十分に一本来るなら良い方だ。学生時代、故郷では雪の時期なんて待合室で来ない電車を小一時間ほど凍えて待っていたのだから。
一人バス停の順路を見れば目的地最寄りまでの乗車する区間はすぐ、バスから降りて土手を通ればすぐにその住宅街は見つかるから、と柳島が言っていたのを思い出す。ここも高層マンションの類はないようで、どうやら都内でもなかなかの穏やかな街らしい。
早朝に実家を出たというのにもうすぐ空は暮れようとしている。随分と遠くに来てしまったな、ああ、少し腹が減って来た気がする。昼は柳島と新宿の喫茶店でコーヒーを飲んできたきりだったから。
ぼうっとバスを待っていると随分と律風の後ろに列が出来てしまっていた。前払い、整理券がいらない。そんなバスがあるのか。律風がバス代の小銭を用意しているとようやくバスがやって来た。この荷物が、だけど始発だから多分座れる。
乗り込んだバスで出口に近い席に座ることが出来た。キャリーバッグを邪魔にならないように寄せて、律風は窓に写る車内の景色を見た。その中で一人の青年のトートバッグからスケッチブックがはみ出している。律風はその様子を見て息をのんだ。いや、都内には美大だけじゃなくていくつものデザインの専門学校だってあるのだ。趣味のアマチュア画家もこの薄暗くなる時間にわざわざ理由もなくスケッチになんて行かないだろう。彼はおそらく帰宅途中、でもあのメーカーのスケッチブックのさわり心地は好きだった、練り消しは毛羽立たないし柔らかい芯の滑りも良くって。
忘れたい過去があふれ出してしまう、その彼を見たくなくて律風は窓の外を見ようとした。しかし、それでも窓にうつる青年の鞄から目が離せない。それはかつての律風の風景、学校に向かう時の荷物が多くて、通学にどれだけ不便だったか。それで学校最寄りのアパート暮らしを選んだ同級生もいたけれど、律風は自宅から出たくはなかった。それなりに気にはいっていたんだ、あの古い家を。
冷や汗をかきながら律風は目を閉じ頭を振るった。その気に入っていた家にいられなくなったのも全て自分が悪いこと。後悔してもあの年月なんて戻るわけがないのだから。目を閉じてふと気がつけば、スケッチブックの青年はいなくなっていた。
下車するバス停のアナウンスに慌てて律風はブザーを押す。つい癖で車内前方の表示を探して、バス代はいくらか見てしまうが東京も地域によっては後払いのバスはあまりないらしい。一つ一つが違っている、その事実が疎外感と新たな探検みたいで悲しいようなわくわくするようなもう自分でもよくわからない、律風の心は複雑だった。
柳島の言うと通りにバスから降りると近くに土手が広がっていた。実家の方では夜に土手なんか危ないから通るなと言われていたが、この街は意外と電灯も多く明るいからそれほど恐ろしくもない。
「あ……」
パーカー姿の若い背中が土手に腰掛けてスケッチブックに風景画を描いていた。確かにここの電灯の下なら描けないこともないだろう。しかし彼は何度も描いては消し、を繰り返している。次第に焦り、彼は鉛筆を強く握ってスケッチブックを塗りつぶした。やがて、そのページを破って放る。
『そうだ、絶望しろ。
お前が描かなくても誰も悲しまない。
どうせその手では、思ったようになんか何も描けやしないのだから。
なあ、夢を追うことは幸せか?
その絵は一体誰のために描いているんだ。
何もかもかなわないことに絶望しているのだろう。
いくら先を目指しても、見失ったものは何もこの手には 残らなかった よ』
律風がふと目をそらしてから再び彼を見ようとするも、そこには誰もいなかった。
***
通っていた大学には学生が自由に使うことの出来るアトリエがある。思ったよりも静かで、絵の具の匂いが鼻につく。律風は授業後創作意欲のわいた日には無意味に居残ってお気に入りの番号のイーゼルと椅子をセットして絵を描いている事が多かった。モデルはなんでもよかったのだ、ただ揺れる描線から塗りを重ね、無意識に次第に自分だけの世界が完成する行程が楽しい。あまりに楽しくって夢中になって気がついたらもう日暮れ過ぎ、最終電車は早いから慌てて画材を片付けて帰宅する日々は、律風にとっては至福の時間でもあった。
その話をかつて父にしたことがある。彼も一日中アトリエにこもっていて、夕食の時間になっても出てこない。それでもあまりに遅い時間になれば彼を呼びに律風はアトリエのドアを叩く。彼は日が暮れたのにも、夕食を食べ損ねているのにも気がつかなかった。それでも父もそんな日常が律風と同じように幸せだ、って言って……。
大学受験に際して、律風は予備校には通わなかった。そんなお金が実家にないのはわかっていたから、受験勉強は問題集を買って絵に関しては父に教わる。学校で五人しかいない美術部でいつも居残っているのは律風だけだった。
「市内の高校美術部の展覧会に出す予定なんだ」
それは律風の個人的な高校最後の一大イベントでもあった。受験勉強をしながらも作品の構想も練る。良いアングルというものをときおり父に教えてもらって、しかし思うようには描けなくて……そのまま諦めそうな律風を父は鼓舞する。
「描くのをやめたらなにもないままだよ律風。このキャンバスには世界の誰でもない、お前が描きたいものを描くんだ」
下描きを何枚も描き直して、やがて覚悟して絵の具をそっと乗せる。深呼吸、そうするともうあとは手が勝手に動いていった。それは律風の心の目で見た地元の町並みと空の風景だった。
「優秀賞だって、父さん!」
珍しく走って目を輝かせながら帰ってきた律風に少し父は驚いていた。それでもすぐに一緒に喜んで、週末に市役所の展覧会場に二人で行くことになった。制服姿も何人か見える。律風の絵は思ったより目立つところにあって少し恥ずかしい。優秀賞、御津屋律風高校三年生。律風の手が震えている、無意識に顔も赤くなって、でもこれが小さな成功体験の一つだった。それは望んで律風が努力の末に一人手を伸ばして得たもの。あの頃は常々右手が動かなくなったら怖いな、と思っていた。絵が描けなければ生きていけない。絵を描くことしか褒められる体験がなかったから……いつも思う多分自分はいまこの瞬間のために生きてきたのだと。
展示会場の入り口で記念写真を撮って、父と二人帰宅の途につく。人影まばらな乗車した電車で、律風は覚悟を父に打ち明けた。
「俺、やっぱり大学は絵を描く勉強をする。それで美術の教師になるんだ」
「なに、教師?」
「だって教師なら給料もらいながら、毎日絵をずっと描いていることが出来るだろう? それで絵を描き続けてうまくなったら、いつかは独立して父さんみたいな画家になりたい」
父は少し何か言いたげな顔をして、逆光。しばしそのくちびるが迷っていたが律風はそれに気がつかなかった。
「父さん?」
「いや、なんでもないよ。お前が望むように生きなさい」
それからの日々は学校以外は受験のために使っていた。絵と勉強を繰り返して、冬の終わり、ついにその目で合格通知を見ることになる。
***
庭のたき火は火が燃えひろがらないように注意して、スケッチブックなどの紙類はちぎって小さくして火の中へ入れた。その中にはあの日受賞したキャンバスも含まれている。ああ、皆、煙になって空に昇っていく。今なら右手が動かなくなっても、律風は多分少しの不便を感じつつ、黙って生きてゆくのだろう。
「何してたんだろうなあ……俺」
全ては無意味な時間だった。もう描かない、絵は、もう。
こんな無駄な時間、どうして途中で気づかなかったのだろうか。
【初対面にて】
「麻梨さまは写真がお好きで。スマートフォン、スマホって言うのかい、あれを持って毎日一枚写真を撮るためだけに外出する。君は美術の道を目指していたと聞いたから多少の写真の知識はあるだろう、どうか彼の良いお友達になってやってくれないか」
柳島はそんなことも言っていた。ここから見る夕暮れの色は故郷と違う。ああ、この街で『まだ見ぬ彼と』これから生きてゆくのか。そこに不安がないわけでもない。
***
有線の音楽が流れる喫茶店で、律風は飲み慣れないコーヒーのカップを口に。柳島の手は深くしわが刻まれて、几帳面に爪を短く切ったその指先は少し荒れている。長年、日常的に家の仕事をこなした手だ。料理から買い物まで、それは律風の知らないどこにでもいる『母親』のような。
「その、……その方は一体どんな食べ物がお好きなんですか? 俺は食事に何を作ったら良いのか迷っています、例えば好きなものは?」
「好きなものねえ……あの方は、食事全般が苦手だからね」
「は?」
「一日一食、食べたらいいほう、それも受け付けない日も多いし……肉も魚も味の濃いものも駄目だ」
「それじゃあ俺はどうしたら」
「ね、迷うだろう?」
柳島は苦笑しながらそう言った。律風は家事全般それなりにこなせるが、そこまで料理には特化していない。節約メニューとか制限メニューとか、そう言った細かなことはわからなかった。
「でもオムライスは割と好きだったかな。何度も彼のためにチキンライスをこさえたことか、でもその肝心の鶏肉を嫌がるからね。結局細かに細かに刻んで混ぜたよ。まあ栄養のためには必要なことだから。ところで君の得意な料理は?」
「……ハンバーグ」
「ああ、それは難しそうだ」
***
律風が土手から住宅街に下ったところには小さなスーパーマーケットがあった。柳島の言葉通りオムライスの材料を買おうと思って、右手にキャリーバッグ左手にバスケットを手に持ち入店する。
「卵と、ミックスベジタブルで良いか……」
そして少量の鶏の胸肉をバスケットへ。米と調味料はおそらくあるだろうから改めて後日買い物をしよう。この街の地理をいまいち知らないから、時間のあるときにまわってみる。実家とは違ってコンビニも多いし土手から見た風景ではスーパーもいくつかあるのはわかった。自転車でもあったら買い物には便利なのだが。
しかしキャリーバッグを持ちながら買い物をするのは大変だ。見かねたレジの女性が律風が財布の小銭を探しているうちに代わりにレジ袋に商品を入れてくれた。
「すみません」
「いえ、ちょうどお預かりします」
レジが音を鳴らしてすぐに自動でお札が出てきた。レシートとおつり、そろえられたお札に五百円玉をトレイに入れて彼女は機械的に頭を下げる。律風もまたそれにつられて深く頭を下げてしまった。
地図の通りに歩いて十分以上が経つのに未だ目的地につかない。二階建てのアパートらしいが……そこに部活帰りと思われる大きな鞄を自転車かごにいれた高校生くらいの少年とすれ違う。勇気を出して声をかけてそのアパート名を訪ねると彼はもう一つ向こうの角を曲がればすぐだと教えてくれた。しかし都内の住宅街とはなんて家の多いこと。律風の実家なら隣の家まで五分かかる。中学校も三十分は山道を歩いて通学したし、むしろそれでも近い方で。こんなに人との距離が近くては疲れてしまわないのだろうか。
『アパート月下』、そう書かれたプレートが見える。そのとき電柱に備え付けられた明かりが数回点滅した。
目の前には少し古びた二階建てのアパートが建っている。多分二十年以上経過しているのだろう。それでも律風の家よりは十分新しいが、大金持ちの長男の暮らす家には思えなかった。それほどに何かをやらかしたのだろうが、柳島はその理由に口を濁して、ただ黙って世話をするように念を押された。
最近のものがないからと件の長男の麻梨、これから律風の『ご主人様』になる人物の写真は見ていない。麻梨、果たしてその名前に合うような容姿をしているのか。一日一食とは言え部屋から滅多の出ないらしいから、運動不足にたるんだ身体をした暗い目をした青年を律風は思い浮かべている。なんにせよ世間を知らないお坊ちゃんである事は間違いない、だって会社を継ぐのは年子の次男と聞いた。麻梨自身は今年で二十四歳を迎え、いわゆるニートの生活。日がなインターネットやテレビゲームで一日を送っているのかは知らないが、ここ数年は会社も学校にも所属してはいないと言う。
幼い頃から恵まれた生活をしていたくせに、そうした結果人生から脱落したのなら同情は出来ない。できる限りの事はした、それでも脱落してしまった律風にとっては、人生とはそうあまくはないもの。惨めにスケッチブックを焼いた火の赤を覚えている。あの感情は何を言い尽くしてもきっと誰にも、麻梨にだってわからない。
インターホンを一回鳴らす、室内からは何の物音も聞こえなかった。表札もないが角部屋はここしかないし、連絡事項を書かれたメールを見ながら訪ねているのだから間違ってはいないと思う。明かりもついていないところを見るともう寝てしまったのか? 時刻は午後七時半、眠るにはまだ少し早いのではないか……。
もう一回鳴らした。いるのだろう? このまま鍵を開けてもらえないと今夜の律風はどうしたら良いのだ。卵や肉とキャリーバッグにリュックサック。もう駅前にすら戻り難い。必死の思いでノックを数回、それでもあきらめかけたところで静かにドアの鍵が開いた。
「あ……えっと」
そこに出てきたのは長い髪でシャツにゆったりとした黒のパンツ姿の小柄で痩せた色の白い女性……いいや、男性だ。顔半分が髪で隠れてはいるが、その大きな目に長いまつげが印象的で。しかし古びた人形のようにも見えるほどに、彼にはどこか生気がなかった。
「御津屋律風です、その、住み込みの件で……あなたが生田麻梨さんですか?」
彼は少し戸惑って、小さくうなずく。そして下を向いてそのまま部屋の中に入って行ってしまった。
ドアノブを任された律風、これは中に入っても良いと言うことなのか。それでも荷物も重かったし、律風もまた部屋の中へ。
麻梨の住まいは生活感をみじんも感じさせないくらいに片付いているというか、もの自体がなかった。ダイニングキッチンにはテーブルと冷蔵庫と電子レンジ。これも麻梨が使っていると言うより、この家の世話をしている人物が使っているだけだろう。だってそれくらいに人の触れた様子もない。誰かが使って、きちんと清掃をしてそれっきり、みたいな。
テーブルのうえには醤油差しすら乗っていない。数枚の引っ越し業者のチラシが無造作に置いてあって、それも読んだ気配はなかった。薄暗い部屋は電球が暗いのか暗く重い影が差す、麻梨はそっとふすまを指さして律風に使うように無言で示した。
「ここを使って良いんですか?」
「……」
静かにうなずいて、彼はそのまま足早に自室と思われる隣の鍵のかかる木製のドアの部屋の向こうに入っていってしまった。結局ここまで彼の声すら聞いていない。無音の部屋、むしろ外の自転車がブレーキをかけた音の方が大きく聞こえる。
テレビもない、麻梨の部屋にはあるのかもしれないが。とりあえず今は荷物をしまおう。そう思って律風がふすまを開けるとそこには畳まれた布団一組とシーツに文机。残りは壁際に設置された小さなタンスしかない。どこかの文豪が旅館で仕事をしているような、少なくとも長く暮らすには不便そうな部屋である。あまりに静かな家だから、律風は足音を立てないようにそっと部屋に入りふすまを閉める。ああなんて、居心地の悪いこと。
『君に覚悟はある、そう受け取っても構わないかい?』
そんな柳島の言葉が脳裏に蘇る。これは確かにそう簡単に引き受ける案件ではなかったか……ただただ、気まずい。
壁掛けの時計は午後八時を知らせていた。呆然としているわけにはいかない、この卵や鶏肉をはやく冷蔵庫に……そこで文机に一通の白い封筒が置いてあった。麻梨に宛てたものではないだろう、この部屋にあると言うことは。
『食事は昼の十二時、後は随時様子をみて彼にあわせて。
大きな音はたてないで、音楽なんてもってのほか。
家事は朝のうちに終わらせる。
彼が風呂に入るときは気をつける、なかで倒れないか注 意して。
夜は静かに部屋をのぞかないように。
毎月第三水曜日は心療内科に受診をすること』
そう言った内容が達筆な字で綴られている。おそらくこれを書いたのは柳島だ、彼の器用な手が書く文字だと想像できる。それよりもだ『心療内科』、封筒の中には麻梨の保険証と診察券が入っていた。つまりはそう言う事情か、彼が一切言葉を発しないのもそれならなんとなくわかる気がする。彼が、生田麻梨。今日からこの家で律風は彼と暮らして、身の回りの世話をするのだ。
2021年12月7日火曜日
うたかたの白日/A5/104ページ/本編完結済み/書き下ろし番外編あり/全年齢
(サンプル)
一、残響
地面をたたく残響音。
今日もやまない雨が降り続いているようだった。
しかし今更ここで私が私自身について語るとしても、ろくに語れるような自信も誇りも才能もなく。十八歳の時東京の医大に通いながら医者を志していたが、学ぶほど挫折を繰り返しやがて全てを諦めて東京を離れることとなった。
この街にやって来て私が暮らし始めたのは郊外の高台に建つ古い家で、そこからは黒色の軍艦とともに遥かに遠い海が見える。朝晩のその風景の美しさが、それだけが、たった一人この街にやって来た私にとって唯一の救いだった。
この数年は自宅で細々と外国文学の翻訳の仕事をして暮らしていた。収入は些細なものだったが一人で生きるのには事足りた。資産家だった亡き祖父母の遺産もまだのこっている。
「黒島さん、速達だよ」
秋の終わり、冬まであと少し。面倒で呼び鈴にいつまでも出なかったら郵便配達に引き戸を叩かれ急かされて、渋々とその手紙を受け取った。速達、これは私が電話に滅多に出ないことを知っている兄からのものだ。
心当たりのない手紙には悪い予感しかしなかったが、勢いのままその封を開ける。そこに書いてあったのは……。
「兄さん! 冗談はやめてくれないか」
「冗談なんか書いた覚えはないがね、散々弟の勝手を許した兄からの最初で最後の願いだよ」
「断る、そもそも私は……」
「その歳で隠居を決めたかったんだろう? しかし事情というものがある」
「じゃあ、あなたが引き取ればい良いじゃないですか!」
勢いのまま手紙を握りしめて慌てて兄へ苦手な電話をかける。遠縁の少年を引き取ってはくれないか、要約すればそんな文章が手紙に綴られていた。冗談じゃない、一生結婚する気すらないこの家に。
「なに、彼が成人するまでで良い、あっという間だよ。俺は急遽海外勤務が決まってね……」
***
国鉄の列車が走る線路に木造の駅舎が音を立てて軋む、そんな冬の朝だった。午前九時には着くと聞いた、その迎えに来てはいたものの『新たなる家族』を迎えることについて私は未だ納得はしていなかった。
列車が到着して乗客が改札を抜けて行く。件の少年についての特徴を聞いたが、私は疑いしか持ってはいない。
金髪に紺碧の瞳、美しい子だよと兄は笑った。しかし遠縁とは言えそこに外国の血の繋がりがあるなんて今まで聞いたことはなかったのだ。
「あの」
突然背後から声をかけられて息を飲む、振り向いた先にいたその姿は。
「黒島朝陽(くろしまあさひ)さまですか」
「あ、ああ……」
凛とした耳によく通る声だった。まるで鈴の音が鳴るように彼は言葉を紡いでゆく。
「メメントです。メメント・フジハラ、初めまして今日からお世話になります」
兄の言った通りだ金髪に紺碧の瞳、にこりと笑ったその顔は小柄な少女と言っても構わないくらい美しい少年だった。
***
「ゲホッ、ゴホンゴホッ……」
冬の刺さるような空気が胸を刺す。咳き込みながら歩く私の後ろをメメントは右足が悪いからと瞳と同じ色の紺碧の杖をついて歩いていた。その独特の足音が気になり何度も振り返っては立ち止まる。
「この坂、まだ続くが大丈夫かい?」
「杖をついているだけで僕なりに歩けているんですよ。ご心配なく大丈夫ですよ、歩きづらくみえるかもしれませんが……ああ高台の景色が見えてきましたね」
真昼の海が静かに今日も動いている。時の流れをなぞるように……そして今日も我々は生きているのだ。
「僕は東京から参りました。東京の若者はやたらと群れを成しては、ギターを持ち出し大騒ぎをしている。それに比べたらここはなんて穏やかな風景でしょう。流行りの音楽が嫌いなわけではありませんが……あの街は騒がしくて、眩暈までする」
「ああ、新宿なんてだいぶ変わってしまったらしいね。高層ビルが増えるんだろう? 私も一時暮らしてはいたが……どうにも馴染めない土地だった。相性が合わなかったのだろうね」
「作家や詩人の方にとっては創作意欲が刺激されて、いいんじゃないですか?」
「いや、私はそんな大層なものではないよ」
メメントは高台からの風景を仰いだ。そのキラキラと光る瞳はまるで宝石のよう、最初は人形が言葉を発しているかのような印象しかなかったが、その表情には明らかに感情が込められている。彼もまた、この世界で必死に生きていた。
(つづく)
