声は鳴く/A5/116ページ/一冊完結済み/全年齢
(サンプル)
【声のかたちを失って】
都内、住宅街。
その日乱れた髪を直すこともせず、一人の痩せた青年が屋敷に向かって頭を下げていた。
荷物はリュックサックひとつ、土産も持たず。
『今日でこの家を後にしようと思います。
いままでありがとうございました。
僕のことはどうか、忘れてください。
生まれてきてしまって……すみません』
***
上京前日、春の始まりは毎年特に思うところなどなくいつもただ人々を見送るだけだった。しかし今年は少し違う、まさか自分がここでその一歩を踏み出そうとは。しかしその頃の精神状態は人の幸せが許せなくって、何なら皆でそろって奈落の底に落ちれば良いのだと思っていた。自分だけが不幸なんて思いたくない。
「律風、あの話だけどな、別に断っても良いんだぞ」
御津屋律風は日々を持て余していた。大学を退学したのが半年前、たったわずかな一年半の大学生活を思い出して懐かしむことが出来るほど、まだ余裕があるわけでもないし、しかし自由を手にしたといえるほどこの町を思いのままにうろつけるわけでもない。小さな田舎町だから噂はすぐに回る、かつての同級生もまだ、暮らしている。
律風の父は職業画家で、今日も庭の納屋を改造したアトリエに朝からこもって仕事をしていた。着古した仕事用のエプロンには乾いた油彩絵の具が何色もこびりついている。そんな父を尊敬して憧れる、そんな頃が律風にもあった。別に今でも尊敬はしているが。
することもないので朝から律風は大きな身体をして細かく家中を掃除して換気をし、昼食のたぬきそばの準備までした。午後一時、父とふたりでこたつに向かい合って、熱いそばをすすっている。
「どうするかは上京してみて考える。嫌だったらすぐに帰ってくるよ」
「覚悟だけはしておけ、東京は冷たい街だよ」
「……うん」
そばのつゆを一気に飲み干した。部屋が寒かったから身体が温まってちょうど良い。開け放った庭の垣根の向こうには未だ雪をかぶった山々が見えた。寒い町だ、けれど人との距離は近い。しかしその距離の近さが今の律風には居心地が悪かった。
『どうしてやめちゃったの、大学。県立大よね? 受験勉強も大変だっただろうに、もったいない。お父さんもあんなに喜んでいたじゃないの』
そんな言葉ばかり嫌になる程聞いた気がする。うるさい、放っておいてくれ。父は関係ないし、むしろいまの律風の心には父に謝罪の言葉しかない。学費を払ってもらって、この家で二人……ただ、自分自身がなりたい人になれなかったから退学の道を選んだだけなのに、なんて親不孝で残念な子だって。そんなのわかっているからどうかもうこれ以上こちらを見るな。
全ては父親経由で紹介された東京で住み込みのアルバイトの話がきっかけだった。
これから生まれて初めて父と離れて暮らすことになる。離婚した母のことは覚えていないが、父と子で暮らす生活は別に嫌じゃなかった。子供の頃は帰宅したら家事を手伝わねばならないことが嫌で仕方なかったが、今ではもう生活に染みついてしまった。そんな二十歳の青年は地味だし金も節約して、友人も少ないから滅多に飲み会にも誘われない。だから律風はこんな日々を変える覚悟をした。多分このままこの町にいたら変わらないまま自己中心的な、何も持たないろくでもない大人になってしまう。
そばの器を片付けて、換気していた縁側の障子を閉めようとした。今日もこの町の空だけは綺麗だ、なんとなくデニムの後ろポケットに入れてあったスマートフォンで写真を撮って。果たして東京の空は何色だろう?
上京前日、荷物を用意しながら父と話す。内容は大して心に残るものではなく、この家であったことの思い出話。良いことばかりではなかったが、悪いことばかりでもない。小学校から毎年一緒に食べた誕生日のエビフライが美味しかったとか、中学の時に思った以上に身長が伸びてしまって二年の半ばで制服を買い換えたこととか。あのときは申し訳なかったと律風が言ったら、父はただ笑うだけだったが。
荷物はリュックサックに小さなキャリーバッグだけだ。気に入っている本や服を数枚、服は季節が変わったら東京の方で買えば良いし。それでも最後まで迷っていたものがある、画材一式、でも多分もう油彩画なんて描かないし……そう思っていたら父が真新しい小さなスケッチブックを渡してきた。
「なに……?」
「そう嫌がるなよ、絵とお前は子供の頃からずっと一緒だったろう。落ち込んだ日にはらくがきでもすれば気が紛れる。別に大学を辞めてしまったから絵を描いてはいけないなんて規則はないよ」
「でも」
「まあいいじゃないか、これに鉛筆と消しゴムだけは持って行け、な? この家での思い出に」
キャリーバッグにはまだ余裕があった。いまいち納得しないまま、律風はそれを内側のポケットに入れる。もう、後の思い出は置いておく。うまくいかなかったらきっとどうせすぐに戻ってくるのだから。
【新宿の喫茶店】
新宿駅はまるで迷宮のようだった。地元の無人駅から比べてしまえば、もう思う方向には進めないし出口もありすぎてよくわからない。しかも人混みの中ではキャリーバッグが明らかに迷惑になっている。広告の並ぶ壁際に寄って、着信したメールの約束場所に向かわなければと律風はポケットの中のスマホを見る。新宿、特に歌舞伎町は危ない街だから気をつけるようにって何度も父が行っていた。しかしその歌舞伎町がそもそもどこで何なのかがわからないし、それ以前にまずはいま自分が駅のどこにいるのか、それが問題だ。
スマホと駅構内の地図で調べた結果、律風はどうやら自分が今、地下にいることだけはわかった。地上に出たいのだが、一体どこの何番出口から出れば良いのだろう。仕方なく、少し恥ずかしかったが今日会う予定の男性に電話をかけることにした。
すみませんここはどこですか、それは田舎者丸出しみたいで……しかし、そう気にしてもいられない。約束の時間は迫っていた。
「あの、……もしもし、はじめまして御津屋ですが」
***
「ああ、ようやくついたようだね。こちらにおいで」
新宿駅からビル街を抜けて、待ち合わせ場所だった小さな喫茶店にようやくたどり着いたのは約束の時間から十分を過ぎてしまっていた。
「すみません、途中、やっぱり迷ってしまって」
「東京が初めての君には新宿駅は申し訳なかったね、他の駅でもよかったのだが……」
白髪頭の男性は木製の小さな杖をテーブルにかけていた。七十歳近いのじゃないだろうか、いかにも優しい表情の彼は柳島総一と名乗った。先日、足を痛めてしまって不自由が多くなり急遽仕事を辞めざるをえなかったと言う。その仕事が父経由で御津屋律風に話の来た『都内大企業の社長の長男の家で、住み込みのアルバイト』だった。
「使用人と言ってしまえば前時代的な仕事だが、実質そうなのだから仕方がない。君、覚悟はあるかい? 他の仕事の方がよかった、と思うこともあるかもしれないよ。それもあと何年この街で拘束されるのか……」
「家事は実家で全て行ってきました。手先が器用だとは言い難いですが」
「君も絵を描いていたんだって? お父上の作品は目にしたことがあるよ、生田の旦那様が好きでね。古いお知り合い、そう聞いたけれど」
「同じ大学の出身、そう言っていました」
「ああ、そうだった。それはそれは青春の楽しい時間を過ごしたのだろうね」
大学にそんな青春があるのかは律風は結局わからなかった。輪の中に入ればきっとそれなりに楽しかったのだろうがいつもそこから外れてしまっていた彼にとって、それは想像するしかない話で。
「あの方は難しいところがある。苦しんで家を後にしてもう何年も変わっていない。今では外に出るときは言葉も失って……ああ」
「言葉を……? 何かご病気なんですか」
「精神的なもの、そうとしか言いようがないね」
そう言って柳島は眉間にしわを寄せて目を閉じた。何をそんなに悩むことがあったのだろう……しかし大人だと聞いた以上、赤子のようにずっとそばで面倒を見て、時には明け方まで抱き続けていなければならない、そんなことはないと思うのだが。
「君に覚悟はある、そう受け取っても構わないかい?」
「……はい、故郷を後にしてきた以上、しばらくは帰るつもりはありません」
「そうか」
喫茶店の窓からせわしなく歩き続ける無数のビジネスマンを見る。何しろ人の多い街だ、そこにはきっと様々な事情や感情が行き交っているのだろう。もはや自分もその中の一人、律風はまだ本当の東京を知らない。
「麻梨と言うんだ、生田麻梨。これから君が世話をして暮らす方の名前は。男性だが、女性のような名前だろう? 生まれる前から彼のお母様が決めていたんだ、最初は女の子が欲しいってね。つまりはそういう事だよ、君。わかるかい?」
向かう先は新宿からさらに電車を乗り換えて行く。何度目かの乗り換えである私鉄沿線は、駅を過ぎるごとに穏やかになり懐かしい緑も見えるようになった。しかし所々ビル、マンション群を見つけるとやはりここは故郷とは違うのだと実感する。律風の育った町は山の中で、電車は一時間に数本。コンビニエンスストアすら近所にはないから、父の車で日曜日には買い出しに出かけた。大規模スーパーマーケットでいつも買ってもらった買い物終わりのソフトクリームが懐かしい。それもここ数年は身体ばかり大きな男子学生が大荷物を持ってそんなものを食べているのが恥ずかしくて、父に何もいらないと言ってソフトクリーム屋を素通りして帰っていた。少しだけ残念そうな顔をした父を思いだす、父もソフトクリームを楽しみにしていたのかもしれない。親子の関わりは年を経るごとに少なくなっていた。幼い頃はずっと一緒にいたのに。
電車の前の席で窓の外を見ている少年がいる。隣の男性もまた父親なのだろう、脱がせた少年の靴を持って一緒に笑顔で窓の外を見ていた。彼らにとってもこんな時期は人生の中できっと少ない。
「まり!」
律風はそばの女子高生の声に振り向いた。席に座って笑い合う二人組のセーラー服姿、どちらかがまりだ。『まり』と言えば女子の名前の印象があるのにわざわざそんな女性の名前をつけられた彼は一体どのような人なのだろう。顔すら知らない、よくよく考えればそんな最低限の情報すら与えられずにここに来てしまった。ただ自分のどん底の人生を変えたいだけで故郷をあとにして……東京に出るのも良いかと思ったんだ。しかしもう少し考えるべきだったか。でも、もうここからでは、故郷の方が遠い。
その駅の名前を聞いて律風は立ち上がった。まもなく電車が目的の駅に到着するのだ、忘れ物はないか。リュックサックを前に抱え、キャリーバッグを持ち上げる。他に降りる乗客は少ないようでドアの一番前に立った律風はいま、その土地に降り立った。
新宿とは随分違う駅だ。改札口の数は一つ、よかった今度は迷わない。駅前には学生服姿の高校生と親子連れが数組、こんな旅行者じみたものが他にはいないから、律風は少し恥ずかしい。
ここからはバスに乗る。バス停には一台もバスが待ってはいなくて、どうやら時刻表を見ればもう十分待たなければならないらしい。だけど待つことには慣れている、むしろ十分に一本来るなら良い方だ。学生時代、故郷では雪の時期なんて待合室で来ない電車を小一時間ほど凍えて待っていたのだから。
一人バス停の順路を見れば目的地最寄りまでの乗車する区間はすぐ、バスから降りて土手を通ればすぐにその住宅街は見つかるから、と柳島が言っていたのを思い出す。ここも高層マンションの類はないようで、どうやら都内でもなかなかの穏やかな街らしい。
早朝に実家を出たというのにもうすぐ空は暮れようとしている。随分と遠くに来てしまったな、ああ、少し腹が減って来た気がする。昼は柳島と新宿の喫茶店でコーヒーを飲んできたきりだったから。
ぼうっとバスを待っていると随分と律風の後ろに列が出来てしまっていた。前払い、整理券がいらない。そんなバスがあるのか。律風がバス代の小銭を用意しているとようやくバスがやって来た。この荷物が、だけど始発だから多分座れる。
乗り込んだバスで出口に近い席に座ることが出来た。キャリーバッグを邪魔にならないように寄せて、律風は窓に写る車内の景色を見た。その中で一人の青年のトートバッグからスケッチブックがはみ出している。律風はその様子を見て息をのんだ。いや、都内には美大だけじゃなくていくつものデザインの専門学校だってあるのだ。趣味のアマチュア画家もこの薄暗くなる時間にわざわざ理由もなくスケッチになんて行かないだろう。彼はおそらく帰宅途中、でもあのメーカーのスケッチブックのさわり心地は好きだった、練り消しは毛羽立たないし柔らかい芯の滑りも良くって。
忘れたい過去があふれ出してしまう、その彼を見たくなくて律風は窓の外を見ようとした。しかし、それでも窓にうつる青年の鞄から目が離せない。それはかつての律風の風景、学校に向かう時の荷物が多くて、通学にどれだけ不便だったか。それで学校最寄りのアパート暮らしを選んだ同級生もいたけれど、律風は自宅から出たくはなかった。それなりに気にはいっていたんだ、あの古い家を。
冷や汗をかきながら律風は目を閉じ頭を振るった。その気に入っていた家にいられなくなったのも全て自分が悪いこと。後悔してもあの年月なんて戻るわけがないのだから。目を閉じてふと気がつけば、スケッチブックの青年はいなくなっていた。
下車するバス停のアナウンスに慌てて律風はブザーを押す。つい癖で車内前方の表示を探して、バス代はいくらか見てしまうが東京も地域によっては後払いのバスはあまりないらしい。一つ一つが違っている、その事実が疎外感と新たな探検みたいで悲しいようなわくわくするようなもう自分でもよくわからない、律風の心は複雑だった。
柳島の言うと通りにバスから降りると近くに土手が広がっていた。実家の方では夜に土手なんか危ないから通るなと言われていたが、この街は意外と電灯も多く明るいからそれほど恐ろしくもない。
「あ……」
パーカー姿の若い背中が土手に腰掛けてスケッチブックに風景画を描いていた。確かにここの電灯の下なら描けないこともないだろう。しかし彼は何度も描いては消し、を繰り返している。次第に焦り、彼は鉛筆を強く握ってスケッチブックを塗りつぶした。やがて、そのページを破って放る。
『そうだ、絶望しろ。
お前が描かなくても誰も悲しまない。
どうせその手では、思ったようになんか何も描けやしないのだから。
なあ、夢を追うことは幸せか?
その絵は一体誰のために描いているんだ。
何もかもかなわないことに絶望しているのだろう。
いくら先を目指しても、見失ったものは何もこの手には 残らなかった よ』
律風がふと目をそらしてから再び彼を見ようとするも、そこには誰もいなかった。
***
通っていた大学には学生が自由に使うことの出来るアトリエがある。思ったよりも静かで、絵の具の匂いが鼻につく。律風は授業後創作意欲のわいた日には無意味に居残ってお気に入りの番号のイーゼルと椅子をセットして絵を描いている事が多かった。モデルはなんでもよかったのだ、ただ揺れる描線から塗りを重ね、無意識に次第に自分だけの世界が完成する行程が楽しい。あまりに楽しくって夢中になって気がついたらもう日暮れ過ぎ、最終電車は早いから慌てて画材を片付けて帰宅する日々は、律風にとっては至福の時間でもあった。
その話をかつて父にしたことがある。彼も一日中アトリエにこもっていて、夕食の時間になっても出てこない。それでもあまりに遅い時間になれば彼を呼びに律風はアトリエのドアを叩く。彼は日が暮れたのにも、夕食を食べ損ねているのにも気がつかなかった。それでも父もそんな日常が律風と同じように幸せだ、って言って……。
大学受験に際して、律風は予備校には通わなかった。そんなお金が実家にないのはわかっていたから、受験勉強は問題集を買って絵に関しては父に教わる。学校で五人しかいない美術部でいつも居残っているのは律風だけだった。
「市内の高校美術部の展覧会に出す予定なんだ」
それは律風の個人的な高校最後の一大イベントでもあった。受験勉強をしながらも作品の構想も練る。良いアングルというものをときおり父に教えてもらって、しかし思うようには描けなくて……そのまま諦めそうな律風を父は鼓舞する。
「描くのをやめたらなにもないままだよ律風。このキャンバスには世界の誰でもない、お前が描きたいものを描くんだ」
下描きを何枚も描き直して、やがて覚悟して絵の具をそっと乗せる。深呼吸、そうするともうあとは手が勝手に動いていった。それは律風の心の目で見た地元の町並みと空の風景だった。
「優秀賞だって、父さん!」
珍しく走って目を輝かせながら帰ってきた律風に少し父は驚いていた。それでもすぐに一緒に喜んで、週末に市役所の展覧会場に二人で行くことになった。制服姿も何人か見える。律風の絵は思ったより目立つところにあって少し恥ずかしい。優秀賞、御津屋律風高校三年生。律風の手が震えている、無意識に顔も赤くなって、でもこれが小さな成功体験の一つだった。それは望んで律風が努力の末に一人手を伸ばして得たもの。あの頃は常々右手が動かなくなったら怖いな、と思っていた。絵が描けなければ生きていけない。絵を描くことしか褒められる体験がなかったから……いつも思う多分自分はいまこの瞬間のために生きてきたのだと。
展示会場の入り口で記念写真を撮って、父と二人帰宅の途につく。人影まばらな乗車した電車で、律風は覚悟を父に打ち明けた。
「俺、やっぱり大学は絵を描く勉強をする。それで美術の教師になるんだ」
「なに、教師?」
「だって教師なら給料もらいながら、毎日絵をずっと描いていることが出来るだろう? それで絵を描き続けてうまくなったら、いつかは独立して父さんみたいな画家になりたい」
父は少し何か言いたげな顔をして、逆光。しばしそのくちびるが迷っていたが律風はそれに気がつかなかった。
「父さん?」
「いや、なんでもないよ。お前が望むように生きなさい」
それからの日々は学校以外は受験のために使っていた。絵と勉強を繰り返して、冬の終わり、ついにその目で合格通知を見ることになる。
***
庭のたき火は火が燃えひろがらないように注意して、スケッチブックなどの紙類はちぎって小さくして火の中へ入れた。その中にはあの日受賞したキャンバスも含まれている。ああ、皆、煙になって空に昇っていく。今なら右手が動かなくなっても、律風は多分少しの不便を感じつつ、黙って生きてゆくのだろう。
「何してたんだろうなあ……俺」
全ては無意味な時間だった。もう描かない、絵は、もう。
こんな無駄な時間、どうして途中で気づかなかったのだろうか。
【初対面にて】
「麻梨さまは写真がお好きで。スマートフォン、スマホって言うのかい、あれを持って毎日一枚写真を撮るためだけに外出する。君は美術の道を目指していたと聞いたから多少の写真の知識はあるだろう、どうか彼の良いお友達になってやってくれないか」
柳島はそんなことも言っていた。ここから見る夕暮れの色は故郷と違う。ああ、この街で『まだ見ぬ彼と』これから生きてゆくのか。そこに不安がないわけでもない。
***
有線の音楽が流れる喫茶店で、律風は飲み慣れないコーヒーのカップを口に。柳島の手は深くしわが刻まれて、几帳面に爪を短く切ったその指先は少し荒れている。長年、日常的に家の仕事をこなした手だ。料理から買い物まで、それは律風の知らないどこにでもいる『母親』のような。
「その、……その方は一体どんな食べ物がお好きなんですか? 俺は食事に何を作ったら良いのか迷っています、例えば好きなものは?」
「好きなものねえ……あの方は、食事全般が苦手だからね」
「は?」
「一日一食、食べたらいいほう、それも受け付けない日も多いし……肉も魚も味の濃いものも駄目だ」
「それじゃあ俺はどうしたら」
「ね、迷うだろう?」
柳島は苦笑しながらそう言った。律風は家事全般それなりにこなせるが、そこまで料理には特化していない。節約メニューとか制限メニューとか、そう言った細かなことはわからなかった。
「でもオムライスは割と好きだったかな。何度も彼のためにチキンライスをこさえたことか、でもその肝心の鶏肉を嫌がるからね。結局細かに細かに刻んで混ぜたよ。まあ栄養のためには必要なことだから。ところで君の得意な料理は?」
「……ハンバーグ」
「ああ、それは難しそうだ」
***
律風が土手から住宅街に下ったところには小さなスーパーマーケットがあった。柳島の言葉通りオムライスの材料を買おうと思って、右手にキャリーバッグ左手にバスケットを手に持ち入店する。
「卵と、ミックスベジタブルで良いか……」
そして少量の鶏の胸肉をバスケットへ。米と調味料はおそらくあるだろうから改めて後日買い物をしよう。この街の地理をいまいち知らないから、時間のあるときにまわってみる。実家とは違ってコンビニも多いし土手から見た風景ではスーパーもいくつかあるのはわかった。自転車でもあったら買い物には便利なのだが。
しかしキャリーバッグを持ちながら買い物をするのは大変だ。見かねたレジの女性が律風が財布の小銭を探しているうちに代わりにレジ袋に商品を入れてくれた。
「すみません」
「いえ、ちょうどお預かりします」
レジが音を鳴らしてすぐに自動でお札が出てきた。レシートとおつり、そろえられたお札に五百円玉をトレイに入れて彼女は機械的に頭を下げる。律風もまたそれにつられて深く頭を下げてしまった。
地図の通りに歩いて十分以上が経つのに未だ目的地につかない。二階建てのアパートらしいが……そこに部活帰りと思われる大きな鞄を自転車かごにいれた高校生くらいの少年とすれ違う。勇気を出して声をかけてそのアパート名を訪ねると彼はもう一つ向こうの角を曲がればすぐだと教えてくれた。しかし都内の住宅街とはなんて家の多いこと。律風の実家なら隣の家まで五分かかる。中学校も三十分は山道を歩いて通学したし、むしろそれでも近い方で。こんなに人との距離が近くては疲れてしまわないのだろうか。
『アパート月下』、そう書かれたプレートが見える。そのとき電柱に備え付けられた明かりが数回点滅した。
目の前には少し古びた二階建てのアパートが建っている。多分二十年以上経過しているのだろう。それでも律風の家よりは十分新しいが、大金持ちの長男の暮らす家には思えなかった。それほどに何かをやらかしたのだろうが、柳島はその理由に口を濁して、ただ黙って世話をするように念を押された。
最近のものがないからと件の長男の麻梨、これから律風の『ご主人様』になる人物の写真は見ていない。麻梨、果たしてその名前に合うような容姿をしているのか。一日一食とは言え部屋から滅多の出ないらしいから、運動不足にたるんだ身体をした暗い目をした青年を律風は思い浮かべている。なんにせよ世間を知らないお坊ちゃんである事は間違いない、だって会社を継ぐのは年子の次男と聞いた。麻梨自身は今年で二十四歳を迎え、いわゆるニートの生活。日がなインターネットやテレビゲームで一日を送っているのかは知らないが、ここ数年は会社も学校にも所属してはいないと言う。
幼い頃から恵まれた生活をしていたくせに、そうした結果人生から脱落したのなら同情は出来ない。できる限りの事はした、それでも脱落してしまった律風にとっては、人生とはそうあまくはないもの。惨めにスケッチブックを焼いた火の赤を覚えている。あの感情は何を言い尽くしてもきっと誰にも、麻梨にだってわからない。
インターホンを一回鳴らす、室内からは何の物音も聞こえなかった。表札もないが角部屋はここしかないし、連絡事項を書かれたメールを見ながら訪ねているのだから間違ってはいないと思う。明かりもついていないところを見るともう寝てしまったのか? 時刻は午後七時半、眠るにはまだ少し早いのではないか……。
もう一回鳴らした。いるのだろう? このまま鍵を開けてもらえないと今夜の律風はどうしたら良いのだ。卵や肉とキャリーバッグにリュックサック。もう駅前にすら戻り難い。必死の思いでノックを数回、それでもあきらめかけたところで静かにドアの鍵が開いた。
「あ……えっと」
そこに出てきたのは長い髪でシャツにゆったりとした黒のパンツ姿の小柄で痩せた色の白い女性……いいや、男性だ。顔半分が髪で隠れてはいるが、その大きな目に長いまつげが印象的で。しかし古びた人形のようにも見えるほどに、彼にはどこか生気がなかった。
「御津屋律風です、その、住み込みの件で……あなたが生田麻梨さんですか?」
彼は少し戸惑って、小さくうなずく。そして下を向いてそのまま部屋の中に入って行ってしまった。
ドアノブを任された律風、これは中に入っても良いと言うことなのか。それでも荷物も重かったし、律風もまた部屋の中へ。
麻梨の住まいは生活感をみじんも感じさせないくらいに片付いているというか、もの自体がなかった。ダイニングキッチンにはテーブルと冷蔵庫と電子レンジ。これも麻梨が使っていると言うより、この家の世話をしている人物が使っているだけだろう。だってそれくらいに人の触れた様子もない。誰かが使って、きちんと清掃をしてそれっきり、みたいな。
テーブルのうえには醤油差しすら乗っていない。数枚の引っ越し業者のチラシが無造作に置いてあって、それも読んだ気配はなかった。薄暗い部屋は電球が暗いのか暗く重い影が差す、麻梨はそっとふすまを指さして律風に使うように無言で示した。
「ここを使って良いんですか?」
「……」
静かにうなずいて、彼はそのまま足早に自室と思われる隣の鍵のかかる木製のドアの部屋の向こうに入っていってしまった。結局ここまで彼の声すら聞いていない。無音の部屋、むしろ外の自転車がブレーキをかけた音の方が大きく聞こえる。
テレビもない、麻梨の部屋にはあるのかもしれないが。とりあえず今は荷物をしまおう。そう思って律風がふすまを開けるとそこには畳まれた布団一組とシーツに文机。残りは壁際に設置された小さなタンスしかない。どこかの文豪が旅館で仕事をしているような、少なくとも長く暮らすには不便そうな部屋である。あまりに静かな家だから、律風は足音を立てないようにそっと部屋に入りふすまを閉める。ああなんて、居心地の悪いこと。
『君に覚悟はある、そう受け取っても構わないかい?』
そんな柳島の言葉が脳裏に蘇る。これは確かにそう簡単に引き受ける案件ではなかったか……ただただ、気まずい。
壁掛けの時計は午後八時を知らせていた。呆然としているわけにはいかない、この卵や鶏肉をはやく冷蔵庫に……そこで文机に一通の白い封筒が置いてあった。麻梨に宛てたものではないだろう、この部屋にあると言うことは。
『食事は昼の十二時、後は随時様子をみて彼にあわせて。
大きな音はたてないで、音楽なんてもってのほか。
家事は朝のうちに終わらせる。
彼が風呂に入るときは気をつける、なかで倒れないか注 意して。
夜は静かに部屋をのぞかないように。
毎月第三水曜日は心療内科に受診をすること』
そう言った内容が達筆な字で綴られている。おそらくこれを書いたのは柳島だ、彼の器用な手が書く文字だと想像できる。それよりもだ『心療内科』、封筒の中には麻梨の保険証と診察券が入っていた。つまりはそう言う事情か、彼が一切言葉を発しないのもそれならなんとなくわかる気がする。彼が、生田麻梨。今日からこの家で律風は彼と暮らして、身の回りの世話をするのだ。