(サンプル)
【金色の糸】
季節は白い息を吐き出しながら、もう秋も終わってしまうね、と通りすがりの世間話が聞こえてくる。夕暮れの学生服姿の青年は一人、もらい物の古い自転車を操りながら風を切って住宅街を走っていた。彼はのんびりとして少し閉鎖的な、小さな村に住んでいる。通り過ぎた家々ではもうすぐ夕食を囲むのだろう、辺りに広がる調理した食べ物の匂いに、さて今晩何を作ろうかなんて考える彼はその見かけよりも所帯じみている。
鬱蒼とした木々が見える古い木造の平屋の屋敷の玄関の脇に自転車をとめて、彼は玄関の引き戸を開けた。薄暗い家、けれど履き物もあるしあの人はいるはずだ。乱暴に靴を脱いで急いで片手でそれをそろえて、しかし鞄を玄関に放り出しながら足音を立てて奥の部屋へ向かう。彼は元気にしているのだろうか、なにしろ朝はひどく具合が悪そうだったから。そうしてたどり着いたのがいわゆる作業部屋。そのふすまを開けたら、痩せて背中を丸めた青い着物姿の青年がいた。
「ああ、おかえり。今日は随分と早いじゃない」
「委員会の仕事をしていたら遅くなって、図書室のいつも席が空いてなかった」
「窓際の後ろの席? いいじゃないの、どこの席だって」
「他の席じゃ勉強が勉強が進まないんだよ、それより何で寝ていないんだ」
「昼間は休んでいたよ、もう、そんな顔して……起き上がれるようになったから心配しないで」
なんだ、家族が心配して何が悪い、そう言いたかったが少し戸惑う。幼い頃のように感情のまま背中に軽々と抱きつけたらよかった。しかし高校一年生、背はすっかり伸びて、いまでは村で一番の高身長にまで成長した。
「わあ、窓の外! 見たかい颯史郎(そうしろう)くん、外は夕焼けが美しいね。君はこんな中を帰って来たの」
「別にいつもの風景だよ」
しかし、彼はそれが美しいと。年をとったのだろう、かつての彼、鏑木理桜(かぶらぎりお)ならそれこそ風景なんか気にもせず、朝から晩まで仕事に夢中で生きていた。
「颯史郎くん……あ、ッ」
「理桜」
理桜が急に胸を押さえて息が止まった。あわてて颯史郎はその背中に触れる。痩せて随分と骨張って、いままで颯史郎の知る彼ではないよう。近頃では食欲もすっかり落ちてきていたし、寝込むことも多かったから。
「ごめ、ごめんね。大丈夫、すぐにおさまる……」
「また横になっておけよ、なにか食事作るから」
そっと理桜を抱きかかえるように支えながら、部屋の隅に畳まれた予備の布団を敷いてその身体を横たえる。しわが目立つ敷き布団で仕事をしながら寝ては起き、そんな一日を過ごしたのだろうか。彼が今日一日を送った作業部屋に置かれた作業台の上には、金色に輝く糸で縫いあげられた、煌びやかな刺繍作品が大切そうに置いてあった。
***
鏑木颯史郎が母を亡くしたのは十歳のときだった。元来鏑木家の女性は皆短命で、颯史郎は幼い頃に亡くなった祖母を覚えていない。婿入りした父はいつもぶらぶらと遊び歩いていて、いつの間にかいなくなった。
鏑木理桜は母、頼子の一回り下の弟だった。早くに亡くなった祖母の代わりに姉が育てたのだという。高校から市街にある美大まで通わせて、そんな彼と一緒に幼い颯史郎も育てた。颯史郎にとって理桜はともに育った兄弟のようなもの。母に似て穏やかで優しい理桜の印象は、幼い頃から変わってはいなかった。
鏑木家には代々女性に生まれると百花彩葉針(ひゃっかいろはばり)と言う刺繍技術を受け継いで行く伝統があった。それは母も、幼い頃夜なべして刺繍の仕事を懸命にこなしていたのを思い出す。しきたりとして村の結婚式ではこの刺繍を施した着物を着て皆、晴れの日を迎えるのだ。しかし、母は若くして亡くなり、今この技術を持つものは理桜と親戚数人しかいなくなった。男性である理桜がこの技術を受け継いだのは、類い希なる美術の才能と母に女の子供が生まれなかったからである。そんな価値のある技術が、もうじき絶え果ててしまおうとしていた。認めたくない現実だったが、身体が弱く病の床にふせる理桜の姿をみれば、それを考えないではいられない。わかっているから、わかりたくない。颯史郎の心は複雑だ。
【帰ってきた男】
炊き込みご飯と魚の干物、野菜の味噌汁。もらい物や八百屋で特売されていた食材を使って質素ながらも日々暮らしている。旧型の炊飯器の様子を見ながら、颯史郎が今日使った弁当箱を洗っていると、玄関から大声をあげて靴を放り投げて室内に上がり込む気配がした。ああ、あの男も帰ってきたのか。
「うるさい声を上げないでくださいよ」
「よう! お前今日帰るの早かったじゃないか。一緒に帰りついでに荷物を持ってもらいたかったんだが」
「そんなもの、自分で持ってください。俺は荷物持ちじゃない」
「教頭にもらったんだ、熟れたりんご十個。甘いから食欲の無い時にも食べやすい、理桜はどうしている?」
「眠ってます、仕事で疲れたみたいで」
「あいつは無理するからなあ、りんごむいてやれよ。旬の果物は身体に良いんだぞ」
ジョー先生。学校でそう呼ばれている分だけ、生徒に親しみをもたれているのだろうか、しかし少なくとも颯史郎は彼を良くは思わなかった。彼は理桜の幼馴染みの藤間譲(とうまゆずる)、颯史郎の担任教師。先日離婚して以来鏑木の家を住まいとする、全くもって迷惑な話だ。アパートくらい借りられるだろうに食事風呂付きを良いとして、荷物まで持ちこんでしまった。二階の奥の部屋を自室にして毎晩寄り道もせずに帰って来る。たまには食事位、食べてくれば良いのに。
「いただきます! あ、颯史郎、俺のご飯は大盛りで」
「……残ってない」
「ジョーくん、僕の半分食べても良いよ」
「おお、じゃあもらうよ理桜、悪いな!」
「おい理桜、やるな」
「なんだよ颯史郎! このケチ」
「ケ……」
理桜のために食事を作っているところもあるのだ。それをジョーは良いことに山盛りめいっぱいかきこんでしまうのだから。それにしてもここ最近、理桜の食事量が減っていた。彼の好きな食べ物と言えば野菜だの豆腐だの、それは多少の栄養もあるだろうがまるで力になるところがない。
「俺、明日は揚げ物が良いなあ、夕飯」
「明日も家で食べるつもりですか」
「食べるよ、明日もあさっても」
そう言ってジョーはご飯をおかわりした。颯史郎がまだ箸をつけはじめたところだというのに、三十一歳にして高校男子よりも食欲があるとは問題だなと颯史郎は思う。ため息交じりで颯史郎に盛られたおかわりをジョーは嬉々として口にする。けれど颯史郎も今夜の炊き込みご飯はいつもよりも上手く出来たと自負していた。
「理桜ももっと食べろよ、おかわりも」
「うん、ありがとう、十分食べてるよ」
「なあ颯史郎、あとでりんごむいてくれよ」
「ジョー先生は自分でむけば良いじゃないですか、大人でしょう?」
「なんだ、つめたいの。理桜にも食わせるんだよ、果物好きだったよなぁ」
「うん、嫌いじゃない」
ならば後で彼のためにりんごをむこう。理桜は穏やかな顔をして、静かに味噌汁に箸をつけていた。
***
「うるっさいな……」
「疲れていたんじゃない? お酒もすすんでいたし。でも美味しいね、りんご」
畳に寝っ転がって、一人酒盛りをしたジョーがいびきをかいて眠っていた。うるさいなんてものじゃない。室内で工事でも行われているような轟音が響く、村のはずれにあるはずのこの家で。りんごを食べ終わり皿を洗おうと颯史郎が立ち上がれば理桜も気を遣って皿を抱えて立ち上がった。その足元がふらついていたので、颯史郎は理桜に座っているように促した。
「俺がやるから大丈夫だ、静かにしていろ」
「でも……」
「いいから、今日は顔色も悪いし、そろそろ休んだ方が良いじゃないのか」
「なにもかも颯史郎くんに任せてばかりじゃ大変でしょう?」
「もう慣れたよ」
幼い頃は母を手伝って理桜が家事をしていた時期があった。その頃に颯史郎は理桜から家事を教わったのだ。今日の炊き込みご飯だって元々は理桜が作っていたもの。その理桜もまた母にたくさんのことを教わったと言っている、全ては皆、受け継いできた。美味しいご飯も理桜が窓の外の月を見上げる優しい時間も。
「ねえ颯史郎くん、今日はどんな一日だった?」
【別れ話】
「ケホッ、ゴホン……」
早朝の空気が肺に冷たくて少し咳き込んでしまった。早起きをした朝には箪笥の上に飾った白黒写真に庭で咲いた花を供えて、線香を小さく折って火をつけ手を合わせる。今日は姉、鏑木頼子の月命日だった。あの日、理桜は姉を失って颯史郎は母を失った。理桜は幼い頃に亡くした母を覚えてもいなくて、姉頼子が母親代わり。
なにしろ歳の離れたきょうだいだったから理桜も颯史郎と同じように母を失ったようなもの。心の中ではいまだこれから何年たっても寂しさは消えない。最後に残ったのは姉が最後まで伝えようとした伝統だけだった。
百花彩葉針、姉や母、今はもういないその人達の伝えたものが今も理桜のそばにいる。今度は貴方が伝えるのよーー美術大学に通っていた当時、教え込まれた技術だった。しかし姉にそう言われはしたが、現在結ばれたい誰かが特にいるわけでもなく、おそらくこの技術は誰にも伝えることなく消えて行くのだろう。颯史郎は頭の良い子だったが、才能があるかないかで言えば一般人として普通に働いて暮らしていく方が良いと思えた。芸術的な才能は未だ見える様子が無い。
午前五時過ぎになって颯史郎が起きてきた。すでに学生服に着替えて身支度は済んでいる。朝食を作るつもりなのだろう、家事の才能はある様子で何でも器用にこなしている。
「おはよう、颯史郎くん」
「早いな、理桜……ああ、今日は」
「線香をあげて手でも合わせてやりなさい、ここからは見えなくとも姉さんはきっと見ているよ」
「……はい」
颯史郎は家族はいなくとも可哀想な子供に育てたつもりはなかった。しかしこの頃では体調不良が多く家のことは任せがちになってしまっていたが、理桜だって料理くらいは出来る。颯史郎は何も言わなくともいつもそばで理桜を見ていた子供だった。やがて一緒に食事や家のことをやり出して、いまでは理桜よりも料理は上手いし家の管理も抜かりない。彼の作る焦げ目一つない黄金色の卵焼きは、毎朝の食卓に欠かせないものになっている。
「ああ、なんだよお前ら早いなあ……」
六時を過ぎようやくジョーが起きてきた。乱れた髪と薄汚れた寝間着のまま食卓について、酒臭いあくびをする。彼は幼い頃から変わらずに特にこだわりも無くおおらかなまま生きてきた。小学校から高校まで理桜とジョーは同じ学校に通い、その後市街の大学に通っていたからお互いの人生についてよく知っている。理桜が家で刺繍を厳しく教えられている頃、ジョーは大学で人生初めての大恋愛をしていた。同じ高校教師志望の同級生。聡明な女性、理桜は数回会ったことがある。少し気は強いが真面目で真摯に生きている印象を抱いた。頭は切れて会話の展開もはやい。ジョーはそんな彼女に一目惚れをして二人の恋は始まり、結婚したのは二十五歳の頃。ちょうど理桜の姉が亡くなった年だった。
「いただきまーす、でかい干物だなあ!」
「ふふ、お隣さんから美味しいからってもらったんだよね」
「丁寧に食べてくださいよ、高いものだしもったいないから」
「わかってるって、朝からごちそうじゃないか!」
食卓が広がる。ジョーは朝からご機嫌で、大盛りの米を茶碗に盛って。
理桜の生まれて初めて製作した百花彩葉針の作品はジョーの結婚式の着物だった。初めて針を通すとき酷く緊張したのを覚えている。その頃は朝も夜もない生活をして、毎日颯史郎を小学校に送りだしながら三ヶ月掛けて晴れ着に刺繍を施した。その作品を姉に実際見せることは叶わなかったが、いまでもあの作品が理桜の最高傑作だったと思っている。
しかし今年になって、その二人がまさか離婚と言う道を選ぶとは……結婚して数年後に生まれた三歳になる娘の名前は麦。ジョーの元妻のもとで違う父親の子供としてこれから生きてゆくのだと言う。慰謝料代わりに彼女に渡したジョーの学生時代からの貯金で建てた屋敷はこの村にあるから、いつか偶然会うこともあるだろう。けれどもう話も出来ない。
離婚の理由は生活のすれ違いだとか……この件については多くをジョーは語らないが、あれだけ彼女に熱をあげていたのだから、最後まで妻のことを想ったに違いない。きっと二人が幸せになるために自ら身をひいたのだ。そうしてジョーは理桜の元に帰ってきた。その理桜にともに暮らしている颯史郎がいることは息子のようで、多少の救いになっているのだと思う。颯史郎は嫌がるが、ジョーなりに颯史郎をかわいがっている。
「おかわり」
「ないですよ、残りは弁当に使いました」
「おっ、それはありがたい。昼飯は学食だと足りないんだよなあ」
「あなたのぶんじゃありません、理桜のですよ」
「……ジョーくん、よかったら持って行く?」
「おい理桜!」
颯史郎がジョーをにらみつけている。しかし早々に卵焼きと米を食べ尽くしてしまったジョーは理桜のための弁当の包みを、颯史郎が良いと言っていないのに早々に鼻歌交じりに鞄にしまい込んでしまった。
「いいよ颯史郎くん、僕は残り物で。なんだかあまり食欲なくて……そう、昨日いただいたりんごもあるし食事は自分で済ませるから」
「そんなことじゃますます調子を崩して痩せるじゃないか、身体に良くないよ」
「大丈夫だって、弁当だってたくさん食べたい人に食べてもらいたいと思うよ。颯史郎くんの作る料理美味しいしさ」
「まったく……夕飯は残すなよ」
「はあい」
家事を終えた颯史郎と生成りのシャツを羽織った寝癖混じりのジョーは、午前七時を過ぎる頃学校に向かって出かけていった。理桜はその背中をにこにこと玄関から見送って。
「いってら……ック、ああ……」
二人の背中が見えなくなったところで、理桜はまたしても胸の痛みに耐えきれずに玄関に座りこんでしばらく息が止まった。
「ヒッ、ヒュ、……ッ、はぁ、は……っ」
亡くなる間際の姉も胸の痛みをよく訴えていた。壊れた身体もまた、きっとこの家の呪われたしきたりのようなものなのだろう。